2024



余瀬



2024.06.29 SAT 天気:晴れ
11:05
 毎日毎日暑い暑いと言いながらも、先週末は那須の家に行ってきました。この時期に何もしないでいると、庭が雑草で大変なことになってしまいます。だから定期的なお手入れは欠かせません。



 東北自動車道の栃木都賀JCTを通過したあたり、きれいなハスの花園が視界に入ったので、思わず次のICで降りてしまいました。
 ここは「つがの里」という栃木市の公園です



 蓮池を埋め尽くすのは1,000株3,000本のハス。





 「つがの里」は春の季節の桜も有名です。あと園内には手打ちそばや手打ちうどんが食べられる農村レストランもある。展望台や遊具もあって家族連れで楽しめるようなところです。





12:00
 那須に行く途中でもう一つ寄り道をしました。
 こちらは鹿沼市にある磯山神社です。
 社伝によれば988年に創建されたとされ、周囲を古木が覆っていて、暗く厳かな感じです。それほど大きくないですが代々の将軍からも同待遇を受けた。1662年に建立された本殿は県の重要文化財に
指定されています。






この時期、参道のアジサイが見頃になってあじさい祭りが開催されていました。
 20種2000株のアジサイがとってもきれい。



 ふだんとは違ってものすごくたくさんの人が訪れていました。
 コスプレさんも何組かやってきていました。





 

13:35
 ハスとアジサイを見た後は少し気になる場所があって、とりあえず大田原市にある道の駅「与一の里」にやってきました。
ここも何度かやってきているのだけど、新鮮なお野菜が安く買えたり、果物たっぷりの美味しいソフトクリームが食べられたりします。

 

 道の駅のすぐ裏には「那須神社」があります。道の駅は賑わっているのですが、こちらはしんと静まり返っていて訪れる人も少ないです。
 仁徳天皇(313~399年)の時代の創立で、さらに征夷大将軍坂上田村麻呂が応神天皇を祀って八幡宮にしたと伝えられています。
 その後はこの地を治めていた那須氏の崇敬篤く、社宝には那須与一が奉納したといわれる太刀もあります。那須与一というと屋島での戦功が有名ですが、今でも例大祭では永代々神楽や獅子舞のほかに流鏑馬も
披露されています。



 色彩豊かな楼門、本殿とともに国重要文化財に指定されています。
 参道の両脇には続く杉並木も見ごたえがある。
 杉並木で涼しい、夏は涼を求めるならおすすめです。



 ここは奥の細道にも紹介されている景勝地なんだけど、なんでこんなに静かで訪れる人が少ないのかな?






 道の駅を基点にして南方面にお散歩します。
 歩くこと20分ほどで余瀬という地区にやってきました。この道は先日ご紹介した黒羽に続く旧奥州街道で国道254号線の少し西側を通っています。



 昔の道はだいたいこんな感じで緩やかに曲がっていることが多い、こういう道を歩くといろいろな発見があります。

 

 左は江戸時代と明治時代の道標です。こういうものや道祖神、石仏などがいくつもこの地区には見られます。
 今は少し寂れてしまった感じもあるのだけど、このあたりは粟野宿という旧奥州街道の宿場町でした。



 そしてもう一つこの地区を語るうえで欠かせないのが白旗城址です。画像正面に見える小高い丘にその昔お城があった。
 今もその遺構を見ることができるようですが、この時期にこれだけ鬱蒼とした林に分け入るのは、ちょっと勇気が必要なので止めました。
 白旗城は1400年ごろに大関増清が築いた山城とされます。大関家は那須家の武将集団、那須七騎の旗頭で室町期までこの城を拠点としていたという。



 この丘の北側にある加茂神社です。
 一見、よくある村の神社のように見えますが、記録によれば建立は913年という古社で、粟野宿の駅長であった粟野行麿が山城国上加茂神社に詣で分霊を受けて帰ったのその始まりという。



 こちらは西教寺、明治2年の開山なので地区の歴史に比べたら比較的新しい。
 ご本尊は阿弥陀如来で、もともとは下野黒羽藩2代藩主大関弥平治政増の正室シャム姫の持仏像であった。(県指定の重要文化財)
 シャム姫は徳川家康の妾の娘であり、後々大関家に嫁ぐことになりますが、夫政増が26歳の若さで病没してしまう。その後は持仏の阿弥陀如来を本尊として長松院法王寺を建立し、信仰に支えられて
半世紀を生き1662年70歳で没する。

 その後、明治初期の廃仏毀釈で法王寺は廃寺となって、阿弥陀如来像は最終的にはこちらの西教寺のご本尊となった。
 今でこそ東北に向かうメインストリートになっているのは、東北自動車道や国道4号線なのだけど、江戸時代までは人と物の流れはもっと東側にあった。ルートで言うと現在の国道254号線に近いです。
 新しい道ができて、人と物の移動は西側へと移り、現在の国道254号線沿いはとても静かな場所になって、豊かな農村地帯のひろがる景色になっています。
 車で通りかかると「何にもない田舎の風景」に見えるかもしれないけれど、歩いてみると忘れ去られてしまいそうな歴史がたくさん詰まっているようなところです。



 この西教寺の傍らに「おくのほそ道」で芭蕉に付き従った曽良の句碑が建っています。
 
かさねとは八重撫子の名成るべし 曽良

 もちろんお寺自体は明治2年の開山なので、芭蕉とは直接関係はないはず。
 調べたらもともとは黒羽町(現在は大田原市と合併)の町役場にあったものをここに移したということです。というのもここは芭蕉と曽良が長く滞在した地であったということらしい。
 周辺に芭蕉と弟子の句碑が点在していて、この集落の入口にはその解説看板もある。


 

 こちらは光明寺跡です。
 この案内表示の先の暗い藪の中に句碑もあったんだけど、おそらく訪れる観光客もほとんどいないんじゃないかな。
 
夏山に足駄を拝む首途(かどで)哉  芭蕉

 芭蕉は1689年4月9日に光明寺に招かれ、行者堂に安置されていた小角の像を拝して、長途の旅の安全を祈願したと伝えられます。




 県道を歩いていたら「鹿子畑翠桃邸跡入口」という道標を見つけました。
 何て読むんだろ? 何があるんだろ?




 こちらは芭蕉が黒羽に滞在中に訪ねたという、門弟であった翠桃邸跡です。といっても今は一族の墓地だけが残ります。
 翠桃は俳号で本名は鹿子畑豊明、兄は黒羽藩の城代家老で浄法寺高勝、彼もまた芭蕉の門弟であった。

 1689年4月、松尾芭蕉は「おくのほそ道」行脚の際に翠桃宅に5泊、浄法寺邸に8泊しました。これは「おくのほそ道」では最長の滞在期間となります。
 この間、兄弟は二人を厚くもてなし、郊外の寺社や名所旧跡を案内したという。
 居心地がよかったんだろうなあ・・・。



 曽良は日々の日記以外に俳諧のノートを残しています。ここに立てられたパネルにはその「曽良俳諧書留」からの抜粋があります。
 曽良というと、実は幕府の密偵であったという説が有力ではあるのだけど、この粟野と黒羽ではその役割も忘れていたのか、たくさんの句を残しています。
 この書留によれば地元俳人たちとの歌仙興行もあったみたいですね。
 
秣(まぐさ)おふ人を枝折(しおり)の夏野哉 芭蕉

 秣は言うまでもなく馬草で馬のえさのこと、この広い那須野では道が分からない。あの秣を背負って歩いている男を道標にして歩いていけば大丈夫という意味の句です。枝折は山路を歩くときの
メモリーとして枝を折って自分が通った道筋を記録しておくことで帰路の道標とするところから、ひろく街道の道標をも指すようになったという。
 
青き覆盆子(いちこを)こぼす椎の葉 翠桃



 この景色を眺めながら、句が浮かんでくるのは理解できる。
 良いものが生まれるには、様々な要素が必要であるとよく言われる。でもそのなかで最も大切なものは、良いもの新しいものが生まれる環境であると自分は思う。
 偉そうなことを書いてはいますが、実は自分は近代文学に疎い。



 松尾芭蕉の「おくのほそ道」は知っているけど、それを覚えてどうなる? ましてや漢文だなんて、中国の古典を国語として教えているのはおかしいという考えを高校生の時に持っていた。(今も変わらないけど)
 文学的なものって、特に学問や受験のための道具になってしまうと一段とつまらない、それは断言できます。







16:00
 余瀬で「おくのほそ道」巡りをしたあとは、例によってギャラリーバーンに立ち寄りました。
 ギャラリーバーンは基本はレンタルギャラリーなのですが、展覧会がなければオーナーの清野さんの作品が見られたり、アートに関係する人たちが集まったりするような憩いの場所になっています。



 現在は「ミナの絵画と工作展」を開催中でした。
 (入場料無料 火曜日・水曜日は定休日)

 

 今回の展覧会は、清野ミナさんの日本とベルギーの国際交流におけるアウトサイダーアート展出展を記念したものだという。
 ご覧のように緻密でポップな感じの絵が特徴的で、様々な展覧会で活躍しているほか、本や雑誌のカバーや表紙などにもそのデザインが採用されています。


 

 あとはもちろんオーナーの清野さんの作品も展示されてます。
 動くアートシリーズのプテラノドン、そして空飛ぶ潜水艦とクジラの組み合わせ。
 発想が自由過ぎる!


 

 ペーパークラフトの家、デザインもさることながら、この絶妙な質感の出し方に感心します。
 自分もまだまだ知らないことがあって、気付くといろんなことを聞いています。聞けばやり方を教えていただけるのはありがたいです。
 まっとうな絵画も上手、2Fには良くできたブロンズ像も多数ある。
 本当に清野さんは多才です。


 

 ちなみに上のような絵画は今回初めて見たのですが、基本的にはパステルで描いているのだという。肌の色の微妙なグラデーションの表現にはぴったりだね。例えていうなら、その滑らかさは
筆で描いたときの10倍ぐらいある感じです。
 そして顔以外の部分は絵の具で荒く乱暴に描く、この対比が抜群に良い。こういう作品を見てしまうと、ついどこかで影響されそうです。
 でもそれでよいと思う。

 あとは芸術は永遠のものではないとか、ソーラーパネルが増えた、地球温暖化、黒磯駅前の図書館みるる、那須塩原と那須町の関係、挙句はクマが出たなど、今回もいろんなことが話題に
なって、結局は1時間以上おじゃましてました。




 晩御飯は近くのスーパーに久しぶりに買い出しに行って自分でつくる。
 このスーパーはけっこう安くて良いものがあります。

 

 素朴で簡単だけど、地物の野菜と那須のソーセージだから間違いない。
 右は道の駅で買った「天鷹のスパークリング」です。ふたを開けた瞬間に1/3ぐらい吹き出して無駄にした。もったいない。



30 SUN 天気:くもり
8:05
 早起きしてまずは草刈り、1時間ほどで片付ける。



 庭には小さなバラが花をつけていた。
 しっとりとして良い感じの朝でした。

8:45
 神奈川に戻るときは、だいたいどこか面白そうなところを通って、道の駅に立ち寄って帰る。それで今回は矢板の道の駅まで行ってみようということになりました。
 箒川のに沿って続く県道30号線は関谷街道という古道で、近くには古いお寺や神社、そして城跡などが続くようなところです。
 この碑はあいにくの運天でしたが、晴れていれば心地良くドライブができるところです。

 

 こちらは要金寺、一見すると地元密着のよくあるお寺さんでが、すでに1000年近い歴史があるという。
 こちらのお寺は全く観光とは無縁なのですが、その境内はすごく整った庭園のようで見応えがあります。さほど広くはない境内ではありますが、鐘楼や仏像、起伏ある境内や池、滝など一流の人物が
造園したって感じがします。

 ちなみに駐車場からの入口にこの「目心観音」があって、お賽銭を箱の中に入れるときれいな音がします。
 背後の山には912年創建というとても古い箒根神社と塩谷氏の支城だった野沢城址があります。
 ただこの日はかなり地面が湿っていて、途中、苔生した急な階段を50mほど登らないといけないのでやめました。

 

 要金寺のお庭でしばしの休憩です。まだまだアジサイがきれいに咲いてました。


 

 このあとはgoogleマップを参考にしながら、点々と面白そうなところに立ち寄っては道の駅を目指します。
 この松は「二本木の笠松」と呼ばれている樹齢500年の古木、中に入って見たら、やっぱり大きい。



 道は関谷街道から会津中街道へと変わります。こちらも古道であちこちにその痕跡が残ります。
 会津中街道に沿って十王堂跡を見つけた。十王堂とは死後の世界をつかさどる十人の王をまつったお堂だという。
 ここは荒井という集落の中心に近いところなのですが、今はこんな感じで複数の石仏、石碑などが、田んぼの真ん中に無造作に置かれているだけのように見えてしまいました。
 その昔は近世以前の共同墓地だったとされますが、今はもうその様子をうかがい知るのは難しくなっている。

 

 近くには地蔵堂や別の箒根神社などもある。ただ残念なことにそれらを解説する案内板はなく、googleマップの検索でも何も出てこない。
 朽ちた民家も点々とあって、繁栄の跡は失われつつある感じです。



 旧会津中街道という東北へのメインストリートの一つだったから、その昔はたくさんの人の往来があったに違いない。でも正直、今はその面影もだんだんと薄れてきている。
 今ある石でできた遺物も、その風化がすすめば、その存在自体も忘れ去られてゆくに違いないと思いました。





2024.07
camera: Panasonic DMC-TZ60 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio Pro.7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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