「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を訪ねる 2


愛甲石田から伊勢原 遠藤原 田原




 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ですが、回を追うごとに爽やかさが失われてどろどろしてきた。実際に戦乱の世とはそういうものかもしれません。
ドラマの方は舞台が壇ノ浦や京都、平泉とひろがってゆきますが、こちらの話はご近所の神奈川県中西部に限られますのでご容赦を。



4 愛甲石田から伊勢原



 春も盛りを過ぎて暑くなってきた時期、小田急線の愛甲石田駅から伊勢原駅に至る古道を歩いてみます。ほとんどがも住宅地というところなのですが、
それでもまだまだ昔の風景を残すところがあります。






 愛甲石田駅から徒歩5分の所にある子安神社です。創建は不詳ということですが、少なくとも平安時代末期にはこの地に存在していたと推測されます。
1184年に粟津の戦で木曽義仲を討った武将 石田次郎為久が当神社を守護神としいたと伝えられます。




 こちらは近くにある石田子安神社 の水神様。
 このあたりに為久の居城であった石田城の外堀や馬洗場があったと伝えられます。



 水神様の遠景です。この起伏の上段に本丸があったはずなのですが、今はその痕跡を探すのは難しいです。
 為久の墓は愛甲石田駅の南東にある園光院の墓地に現存するそうです。



 一帯には結構大きなお屋敷が残っていたりします。



 本丸があったと思われるところから下ってきた。きっとこのあたりがお城の西の外れになるんだろうな。
 いくつもの道祖神の存在がこの道が古道であったことをうかがわせます、しばらくはこの道に沿って歩くことにします。




 突然、住宅地の間から小高い丘が姿を現した。
 こちらは小金塚古墳と言って直径48mの円墳です。出土した朝顔形埴輪は南関東で最古のものとされているそうです。



 その中心には現在 小金塚神社があり、その下には古墳の埋葬施設が存在すると予想されています。
 しかしながら現在のところ未発掘。




 さらに古道と思われる細く見通しのきかない道をすすみます。
 途中、大山詣りのための道標があった。
 この先は竹林に囲まれていて道幅は1.5mほどに狭くなりますが、少なくとも江戸時代から主要な道として利用されていたことが分かります。



 こうやって歩いているとときどき思う。 「いったいこの道はいつからあるんだろう?」
 昔からある道って、まっすぐでないものが多く、ものすごく効率が悪い。でもおそらくはそれにも理由があるに違いない。今歩いている道も、
縄文以前より存在する古の道だったってことも十分にあり得る。
 想像力を働かせるとお散歩は楽しくなります。

 切通を通り過ぎると大きな工場の柵にぶつかった。
「お地蔵様にお参りされる方は敷地内にお入りください」との案内があったので、近年になってこの古道は途切れ、お地蔵様のみが工場敷地内に
残されているらしい。




 この工場を迂回すると国道246号線に出る。そして今度は先ほどまでの古道の延長線上にある道を探してすすみます。
 曲がってはいるけれど、全体としては国道246号線に並行しているので、ここまで大昔の青山街道を歩いていたのかもしれません。
 なかなか雰囲気の良い蕎麦屋さんと豆菓子屋さんが並んでいた。



 軒先の豆菓子をいくつか購入したのですが、基本的に1つ100円でどれもが美味しい。もし江戸時代から続く老舗だったら、大山詣りのお土産として
人気があったに違いないです。




 ここからしばらく歩くと、またも大山詣りの道標となっている庚申塔があり、ここで古道から離れます。




 おそらく江戸からだとここまで2日、今は近くには第二東名のICがあって、東京から40分。時代は変わった。




 こちらは伊勢原駅に向かう途中にある丸山城址公園です。戦国時代に扇谷上杉氏が築いたと推測され、今も土塁や空堀などの遺構が残されています。
本丸部分だけでも直径200mほどあって、結構立派です。
 今は戦国時代の姿が残されているわけですが、もともとは鎌倉幕府の御家人である糟屋氏の居館がここにあったとされています。平安初期、藤原良方の子
元方が糟屋太郎を名のってこの地に住みついたのがその始まりで、糟屋氏は当初平家方でしたが,のちは立場を変えて平家追討に加わっています。






 こちらは高部屋神社、糟屋荘の総鎮守だったところです。創建年代は不詳。目の前に立つと巨大な茅葺の屋根に圧倒されます。(国指定の有形登録文化財)
 鎌倉幕府の御家人だった糟屋有季が、守護神として新たな社殿を造営したと伝えられています。



 鎌倉幕府の御家人というのは単なる家臣というのでなく、その地域ごとの支配者でかなりの実力を持っていたみたいだね。幕府が言うことを聞かせるのも大変
だったに違いないです。





5 遠藤原



 やってきたのは中井町から平塚市北部にまたがる遠藤原というところです。
 ご覧のような標高100mほどの丘陵地帯がひろがるところで、富士山や丹沢大山国定公園の山々を望む風光明媚なところです。季節によって違いますが麦やキャベツ、
白菜、ナス、その他もろもろの野菜畑が延々と続いています。
 一見して高原のような景観は、ここが都心から1時間以内とは思えないような感じです。
 交通の便としてはそれほど悪くなく、東名高速の秦野中井ICから数kmのところにあります。




 今回のお散歩旅も、このシリーズの第3話でお話しした土屋一族の所領だったところを巡ります。
 平安末期から鎌倉時代にかけて土屋氏は領地を拡大し、この地域では一大勢力になっていました。




 遠藤原は広大な平地であるがゆえに、その昔は鉄砲馬場として使用され、また近隣の神社などでは流鏑馬などが奉納されていたことから、古くから鷹狩などの軍事目的で
使用されるような場所であると推測できます。
 また戦国時代には相模の国を支配していた三浦一族に対して北条早雲がこの地で攻撃を仕掛け、その後は北条氏照と武田信玄との間でも大規模な戦闘が起こった。(五十里塚)
 確かにここは大軍勢が対峙する場所って感じです。




 でも切り開かれた場所を少し離れれば、可憐な花の咲くの道の続く美しい場所でもあります。
 もし余裕があれば「厳島湿性公園」に足を延ばすのも良いかと思います。






 こちらは七国峠です。甲斐、駿河、伊豆、相模、武蔵、安房、上総の七国を望むことができたところからその名がついたという。
 鎌倉時代にはこの近くに狼煙台がつくられ、鎌倉と土屋、岡崎、真田などの武将と連絡をとる体制が整っていたと伝えられます。




 何か良く分からないけど、迫力満点の建物。工務店らしいです。




 こちらは芳盛寺です。鎌倉幕府創設に多大な功のあった土屋三郎宗遠の菩提寺として1204年に創建されました。
 小高い丘の上にあるのですが、春はこの丘全体が花に包まれる。とても美しい場所です。眼下を流れるのは座禅川、昔はここに学問所があり、
修行僧がこの川の前で座禅を組んだことからその名前がついたと言われます。
 もしまだ時間に余裕があるならば、少し先の妙円寺まで足を延ばすと良いと思います。
 またお野菜の直売所も点々とあるので、買い物用の袋の用意を忘れないようにしましょう。安くておいしいのは保証します。




 今日訪れたところは、特に自分でも好きなところです。
 のどかで自然豊かで開放的、聞こえるのは鳥の声ばかりといった感じです。でもその土には過去に流されたたくさんの血が浸み込んでいるのは
紛れもない事実です。





6 田原
 さて、これまでご紹介したように、源頼朝が最初に旗揚げしたとき、真っ先に頼朝に従い、鎌倉幕府成立に向けて尽力した有力武将の多くは、現在の
神奈川県の中西部に居を構えていた武将たちだった。鎌倉幕府が関東を平定すると、彼らは関東武士団の一員として平氏の討伐に向かい、帰ってきた
後も鎌倉を守る西の要の役割を果たし、狼煙台を介して幕府と連絡を取り合っていたということです。
 ただ幕府成立以降は鎌倉から遠いこともあって、やや歴史の表舞台からやや遠ざかってしまう感じかな。でも源氏の時代の終わりにまた少しだけその印を
残している。
 鎌倉幕府は決して安定した政権でなく、様々な策謀が渦巻き、源氏の世の中も僅か三代で終焉を迎えることはよく知られるところです。その三代将軍
源実朝が鶴岡八幡宮で公暁(二代将軍頼家の子)に暗殺された後、鎌倉の勝長寿院にその遺体が葬られたとされているが、その首は公暁が持ち去ったため、
遺体は首なし状態であったといいます。



 秦野市の北部、東田原に「田原ふるさと公園」という、物産館+公園のような施設があるのですが、その一角に「実朝公首塚」があります。何でも新編相模国風土記に
よれば、三浦一族の家臣 武常晴がこの地に首を葬るために持ち帰ったという記録があるのだそうです。それがここ。



 首塚のすぐそばにある金剛寺です。武常晴が実朝の首を埋葬したことに始まると伝えられるお寺です。源氏との関わりあいがあったことは源実朝像が本堂に安置されて
いることからも分かります。


 

 周辺にはとても立派な神社やお寺も多いです。
 秦野市の北部は歴史のあるところなので、見どころもたくさんあります。


  

 そしてやってきたのは香雲寺(1564年開山)、毎年この時期には梅の花のアーケードができることで有名です。
 遠く富士山も見える。



 メジロなどの野鳥が枝から枝に飛び移る、そしてその都度、花が揺れる。



 さてそれにしてもなぜ武常晴は実朝の首を遺体と一緒に埋葬することなく、この地に持ち帰ったのでしょうか?
 鎌倉が埋葬するには相応しくない場所とでも考えたのでしょうか。そのへんの事情が全く分かりません。
 頼朝の死後、公暁による実朝暗殺に至るまでの間の出来事は謎が多く、明快な答えは出ていないのだそうです。もしかしたらここに幕府を置こうなどと
考えていたのかも・・・。可能性はあるね。


2022.06
camera: Canon Powershot G9X Mk.2 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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