「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を訪ねる 6


住吉要害 三浦義村邸 はだの歴史博物館



「「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を訪ねるというシリーズの最終回です。
今回はどちらかというと脇役筋、そしてまとめとして「はだの歴史博物館」を訪れます。


8 市街地の裏側にある昔ながらの風景 住吉要害
 たとえばショッピングセンターにお買い物に出かけたとき、カーナビやスマホで少し面白そうな地区を見つけることがある。
 それがどういうところかというと、まっすぐでない道が絡み合っていて、ところどころにお寺や神社があるって感じです。そしてそこに名勝や旧跡の印があれば、
ほぼ間違いなく歩いてみて失望することのない場所です。



 ここは平塚市街地の北の外れ、表通りには商店や会社の事務所があって、その背後は住宅地になっている。よく見かける街の風景です。
 この通りから歩いて10分ほど、まわりを住宅地に取り囲まれた、昔ながらの風景を見つけました。(平塚市山下)


 

 まるで住宅街のなかのオアシスのように、ぽつんぽつんと畑があって、無人販売所もある。ニンジン3本50円、6種類の葉物野菜のセットが60円といった感じです。
 もちろん、こちらはお買い上げです。




 よくある八幡神社かなと思ったのですが、創建されてから700年以上も経過したとても古い村社だそうです。

 

 こちらは東光寺、相模新西国三十三観音霊場22番札所。


 

 一帯の中心には人の背丈を超えるような高いところがある。(画像の左側)
 こちらは住吉要害とよばれる平城だったところで、地図には「山下長者屋敷」として掲載されています。(内部見学不可)

 こちらは平安末期に築城されたもので、大きさは100m四方、土塁の高さは3mもあったという。また解説文によれば敵討ちで有名な曽我兄弟の兄祐成を助けた虎御前は、
この館で誕生したと伝えられています。虎御前は「曽我物語」のヒロイン、大磯の遊郭で働く遊女だった。



 こちらの城は戦国時代まで活用された後に廃棄、近年までこの一画は23戸の農家の集まる集落だったという。
「ここらあたりは、昔はこんな大きさの集落がいくつかあって、あとは何にもないところだった。」
 そう無人販売所のオーナーが感慨深く語っていました。





9 田村十字路 旧三浦義村鄭
 この日やってきたのは平塚の田村というところです。
 神奈川県の中央を南北に貫く国道121号線沿いの地区です。



 その国道129号線の旧道は八王子街道といって相模と武蔵の国を結ぶ主要道だった。その名残か、今も古い街並みをところどころに見ることができます。



 徳川家康も頻繁にこのあたりを訪れ、鷹狩などをしていたのだと伝えられます。「田村駒返橋跡」「鷹落橋の碑」など、家康に関係する事物がいくつか残っています。




 こちらは八坂神社、創建等は不詳ですがとても立派な構えです。




 市街地からは少し離れているのですが、昔から交通の要衝であったためにお店もけっこうある。
 手前は花水ラオシャンという「平塚タンメン」が食べられる場所です。(本店は平塚駅近くにある) スープには酸味があり、具は基本タマネギとワカメだけという独特の
ものですが、ファンは多い。
 奥は井筒屋菓子店、このあたりでは有名な老舗の和菓子屋さんです。名物は「たむら渡し最中」ほか、どら焼き、すあま、イチゴ大福など。昔ながらの味で素材の良さが
生きている感じです。




 さてこの周辺は国道129、246、412の他にも圏央道や東名、新東名、小田原厚木道路などが交差する現代の交通の要衝です。
 それは昔も同じで、このあたりでいくつかの街道が絡み合い、相模川の対岸を越えて鎌倉街道につながっていた。



 相模川を渡る神川橋のたもとには「田村の渡場」の石碑がある。
 この相模川を渡ると、そこから鎌倉までの間に幅広な河川はないので、鎌倉時代には軍事的にも重要な拠点であったと考えられます。


 

 「田村の渡場」のすぐそばです。ここは今は平塚市営団地になってしまっている場所ですが、ここはもともと三浦義村の居館だったところです
 今はご覧のように石碑が建っているだけなのですが、昭和の初期までは土塁や堀が残っていたらしい。
 街中の歴史遺産探しって、どうしてもこうなっちゃうな・・・。



 館を置くということ自体、やはりここが政治的軍事的にも重要な拠点であったということでしょうね。
 石碑には4代将軍となるべき藤原頼経がここに立ち寄り、何日か滞在したという記述もありました。ドラマじゃないけど三浦義村としても時期将軍に対して影響力を
持ちたかったということなんだろうね。





10 はだの歴史博物館 波多野氏 源実朝像
 歴史上、諸説はありますが、秦野市の北部、田原の地に実朝の首は運ばれ、当地を所領としていた波多野氏によって丁重に葬られることとなりました。その後、
波多野氏は実朝の御霊を弔うために金剛寺を建立することとなります。



 さて秦野市には「はだの歴史博物館」という施設が桜土手古墳公園内にあり、「金倉時代の秦野」という企画展を開催中されました。(2022年12月25日まで、入館無料 )
 内容としては、鎌倉時代の秦野の状況と波多野氏を中心とする歴史上の人物について解説するというもので、あわせて鎌倉時代の遺物が発見された東田原中丸遺跡の
考古資料も展示しています。



 上の画像は金剛寺に保管されている「源野実朝像」です。今回の展示の中心です。



 自分たちが行ったときには放映中のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のパネル展も行われていました。
 等身大の人物パネルと放送資料の展示といった内容でした。




 今回は「鎌倉殿の13人」に関係する展示は企画展でしたが、こちらは秦野の歴史と文化を紹介する施設なので、企画展終了後も特に「波多野氏」に関係する資料等は
閲覧が可能かと思います。



 今回こちらを訪れていただけた資料が2つでwす。
  「平安・鎌倉時代の波多野と波多野氏」は今回の企画展を補完する資料です。波多野氏は和田合戦で和田側についたもののとり潰されることなく生き延び、その後の
承久の乱では、今度は幕府側の一員として戦いに加わります。
 そのとき活躍した波多野義重は北条重時(義時の三男)の娘を妻とし、承久の乱の戦功から得た越前の国に後の永平寺と元となる寺を建立しているなど、後世に名を残す
ことになります。
 もう一冊の「鎌倉時代の秦野」は秦野と鎌倉周辺の時代解説といった内容で、人物相関が整理されてまとめられているのがありがたい。特に実朝暗殺からなぜこの秦野に
首塚がつくられたのかまでの記述は、「鎌倉殿の13人」を見ている人にとっては良い参考書です。(いずれも無料配布)




 この日は天気の良い日でした。
 「はだの歴史博物館」の最寄り駅は小田急線の「渋沢駅」なのだけど、時間が許すなら水無川を下流に沿って歩くのも良いと思います。散歩道として整理されていて、この時期ま
だまだ紅葉がとってもきれい。
 特に秦野市立図書館のあたりの紅葉はすごかった。



 赤いのは柿、まるでクリスマス デコレーションみたい。





 嘘のような鮮やかな配色に、もう大感動でした。




 ということで、NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の方も無事に終了しましたね。
 ただ残念ながら、自分は最終回は話に入り込めなかったな。北条政子が「義時は私利私欲で政を行ったことは一切ない。」と言い切っていたけど、「吾妻鏡」にはそういう
記述はなく、御家人たちを奮い立たせる言葉だけだったらしい。
 実際のところ、ほぼ最後までは私利私欲で政敵を滅ぼし続け、相模の国で生き残った有力な武家は結局のところ北条と三浦だけだった。
 ドロドロの時代はドロドロで通した方が良かったと私個人としては思います。そうすれば今この時代だからこその意味も出てくると思います。



2022.12
camera: Canon Powershot G9X Mk.2 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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