大田原


栃木北部の中心といわれるところ



2023.05.19
  久しぶりに大田原に行ってきました。大田原は栃木県では北部地域の中心地で長い歴史のあるところです。
 ところがその更に北f側にある那須町や那須塩原に比べると、少しばかり訪れる人は少ないかもしれません。でも行ってみるとなかなかに奥深いところです。



82023.06.19 天気:くもり
7:55

 


 大田原はもともと大田原氏の城下町であり、かつまた奥州街道の宿場町でした。
 まずはこの大田原城を訪れてみました。



 掘割などはきっちりとの残されていて歴史的価値は高いと思う。また桜の名所として知られ、その時期にはかなりの賑わいとなります。
 ただその分、この時期は樹が生い茂っていて眺望はあまり良くありません。



 大田原城は1543年に大田原資清によって築城されたお城で、1871年の廃藩置県に至るまでの326年間、大田原氏の居城でした。
 大田原氏は中世以降、那須氏の有力武将「那須七騎」の一つに数えられる有力武将の一つで、秀吉の小田原征伐や関が原での勲功により勢力を拡大、外様大名でありながら
東北の入口であるこの地の守りを任されることになりました。





 



 陸橋を渡ると、その対岸にあるのは大田原神社です。こちらは大田原の総鎮守として807年に創建されたもので、当初は温泉神社と呼ばれていました。

 

 建物自体も歴史を感じるけど、楠や杉などの巨樹に囲まれた様はなかなかに神秘的です。
 こちらの神社も代々の太田原藩主によって、手厚く扱われ続けたという。










 大田原城と大田原神社は陸橋で結ばれていて、今その陸橋上から南西方向を望んでいます。
 真下を通るのは旧奥州街道です。

 もともと大田原城と大田原神社は同じ丘陵上にあって、そこに切通しができて奥州街道がそこを通るようになったということ。そして写真にはないけど反対側には
幅50mほどの蛇尾川が流れていて、ことがあればここはそのまま頑強な要塞となる仕組みです。
 こういうところだからこそ、旅人だけでなく奥州各藩の参勤交代でも、いろいろと睨みを利かせることができたと思われます。

 関東のここより北側に大規模なお城はないから、ここは中世以前の「白河の関」と同様、奥州の勢力に対する一大拠点であったと考えられます。
 ちなみに大田原氏は外様大名であったわけですが、これだけの要衝を任されるというのは、家康の大田原氏に対する信頼は厚かったということかな。







8:30
さて旧奥州街道を南西に向かいます。
 昔だったらここに宿場町があったわけなんだけど、今ではその名残を残すものはほとんどない。

  

 こちらはお城のすぐそばにある「大田原藩馬場跡」という案内表示。

 

このほか「奥州街道大久保木戸跡」「金灯篭」「本陣・問屋・高札場跡」など点々と歴史遺産を伝えるものはあるのだけど、実際そこには説明版や石碑があるだけで、本当に
古いものの痕跡は少しずつ失われてきているのが現実かな。


 

9:00
 宿場町の東側の外れにある「薬師堂」、幅3間の正方形のつくりで形が独特です。(市指定の有形文化財)
 こちらは大田原城四方固めの一つ西薬師と呼ばれ、薬師如来像が祀られる小堂宇を、江戸時代初期に大田原氏が再建したと伝えます。



 大田原ってgoogleマップで見るとここが普通の地方都市とは違う形をしていることに気付きます。
 お城があって宿場町があり、その中心街から何本もの道が放射状に伸びるとともに、環状の道がそれらをつないでいる。何かそのまま東京のような大都市になっても
良いような感じです。
 それだけここが昔は繁栄していたってことでしょう。
 今はそれが少し違う状況になってきているってことかもしれない。

 今回のモデルドールは、2007年にグルーヴから発売されたJ-DOLLのカムデンハイストリートというお人形です。(絶版)
 こちらはパンクロック系のイメージで造られたものなのですが、意外にもこういう曇り空の城跡での撮影に雰囲気ぴったりだったのは驚きでした。







9:20
 大田原の中心街まで戻ってきました。

 大田原は栃木県北部の中心とは言うけれど、高速道路は通っていないし、幹線道路の国道4号線やJRなども中心街から離れたところを通っています。新幹線などは
那須塩原まで行かないと利用できません。だから旅行するには少し不便な場所というイメージがあります。
 だから大田原を訪れるなら自家用車もしくはバスということになります。

 画像背後の大きな白い建物は「トコトコ大田原」といって、図書館や子供向けのアミューズメント、その他、地元の名産品を扱うショッピングセンターが入っていて大田原の
中心的な存在です。また大型の立体駐車場を併設しているので大田原観光の起点となり得るような場所です。

 周辺にはちょっとおしゃれな古民家を改装したカフェやレストランもあります。
 手前の KLASSEE SPRESSO は本格的なコーヒーとスイーツが人気のカフェです。



 こちらも蔵を改装してつくられた三倉カフェというお店です。パスタランチが大人気という話です。





 この10年ぐらいで表通りの雰囲気はがらっと変わった。以前は少し寂れた感じはあったけど、改修や道路の整備がすすんで、おしゃれ度が増している感じです。
 上の画像はお醤油屋さんなんだけど、ほんの少し前まではこういう景色が表通りにもひろがっていました。



 こちらは メゾン ド クチュール という古いアパートを改修した雑貨&カフェです。中の部屋一つ一つが、雑貨や衣類、宝石、カフェなどの専門店になっています。



 大田原は古い町と言われるけど、実際には江戸以前のものは建物としてほとんど残っておらず、大正から昭和の時代の建物がレトロ感を醸し出している感じです。このあたりは
SHOZO ストリートで有名になった近隣の黒磯地区と同じかな。





 

 このままだと単なる観光案内になってしまうので、自分の気になったところをご紹介します。
 こちらは鱗屋商店という雛人形から和装小物まで幅広く扱うお店です。よく見るとそのショーウインドーのなかに飾られたものがなかなかにすごい。



 羽子板の世界には詳しくありませんが、その造形的な美しさや仕上げの完璧さは理解できます。
 お店のHPを覗いてみたら、日本でもトップクラスの職人と取引があって、ここで働く人たちも職人として修業を積んでいるみたい。目の保養になります。


 

 大田原というとやはり那珂川、那珂川と言えばこの季節は鮎、お城のすぐそばに鮎専門店がありました。
 少し小ぶりだったけど焼き鮎が5匹で1000円、遠赤外線効果でほくほく、もうたまりません。

 大田原の街ってなかなかに味のあるところなんだけど、観光客が訪れるには何かもう一つ足りないような気がしないでもない。周辺には地味ながらも良いスポットが
いくつかあるので、これらをどうやって結び付けてゆくかがやはりポイントなんだろうな。

 大田原市は栃木県北部の中心都市として拡大を続け、2005年には過去最高の人口79,023人を数えるに至りました。広大な平地があって多くの企業が進出したことや、
将来的には那須野が原に首都機能を移転するなんて話もあって、将来性を感じる人が多かったってことでしょうね。

 ただそれをピークに人口は減少を続けて2020年には72,087人、15年間で1割ぐらい減少したことにあります。
 あと、文化庁が京都に移転したのは最近のニュースだけど、少し前までは国会機能全体を省庁を含めて地方に移転するという話があって、その第1候補が那須野が原だった。
この話、いったい今はいったいどうなったんだろう?

 

 表通りを一歩奥に入ると、そこには誰も住まなくなったビルや住居がかなり目立つ。これはむしろ現在の地方都市では当たり前の風景なんだけど、やはり何が原因でそうなって
しまったかを考えたくなってしまいます。
 でもけっしてそれだけではなくて、ここではちょっとした新陳代謝のようなものを感じます。



 すごく細い路地に飲み屋街が圧縮されて押し込まれた感じ。歩いたのは日曜の朝なんだけど、つい先ほどまでの賑わいが感じられる。夜な夜なものすごくディープな世界が
ここに展開されているに違いありません。



 

 こちらは一際立派な家なんだけど、このまわりにはょっと小奇麗な日本料理店がいくつかあって、この家自体でも蔵でカフェを営んでいます。
 近くには裁判所や庁舎、いくつかの金融機関や企業の出張所などがあって、このあたりで働く人にとっては馴染みの場所かもしれません。



 こちらは古民家を改装したジャズバー、夜の文化はまだまだ盛んです。

 全国あちこち歩いてきたけど、最も強く悲壮感が漂うのは自治体の合併で街自体が失われるときです。
 合併によって庁舎が移転してしまうと、その役場の多くは公民館に置き換わる。でもそこに働く人は元の何分の1か。そして学校も効率化のために統廃合がすすんで、
先生はいなくなり生徒はバス通学になる。庁舎とかかわりのある業者も去り、周辺の商店街の多くは顧客を失う。
 そうして一気に街は寂れる。
 良くも悪くも自治体の機能があるってこと自体が街を守ることだった現実に気付きます。

 明治維新で京都の担っていた役割が東京に移ってきて、一時期ではありますが京都の町は大変な不況になったそうです。
 今もし本当に首都機能を全面的に地方に移転していたら、おそらくは東京もそれに近い状況になるに違いありません。バブルの頃ならともかく、昨今の状況では・・・、いや、
もはや未来永劫無理かもしれません。





 

9:50
 さて半日かけて大田原の市街地を一周しました。
 大田原城の手前に光真寺という立派なお寺があります。大田原氏一族の菩提寺として1545年に創建されたお寺で、境内には歴代藩主の墓所があります。



 毎年2月3日の節分会では、こちらの甲子大黒天は関東各地からの参詣人でたいそう賑わうそうです。




 最初にこの大田原に鉄道がないみたいなことを書いたけど、実は以前は東野鉄道がJR「西那須野駅」から大田原を経由し、小川町(現那珂川町)までの間を軽便鉄道で結んでいた。
がしかし度重なる災害によって1968年に廃線なってしまいます。
 このお寺の前の道はその廃線跡で通称「ポッポ道」と呼ばれているそうです。





 Camden High Street (J-DOLL 27cm 2007)

 東野鉄道の廃線以降、国道4号線の東側、もともとは奥州街道の宿場町が連なる地域は鉄道の無い町になってしまいました。
 そもそも東北自動車道、国道4号線、東北本線、東北新幹線など、明治以降につくられた主要な交通ルートは旧奥州街道を西側に外れ、真っすぐ白河、郡山に向かう
コースに改められました。もちろんそこには、より効率的に大都市間を結ぶという目的がまずはあったと思うし、更にはそのコースすれば、明治政府の華族や軍人が新たに
開拓した当地の牧場と別宅に行き来するのが便利になるというのも無視できない事実だと思う。

 従来の奥州街道は現在の国道254号線に重なるところが多いです。とても魅力的ではあるけれどまだまだ知名度の低いところがいくつもある。ただそこにある旧宿場町は
決して利便性が良いとは言えず、人口は今も減り続けています。

 ふと思ったのですが、とりえず昔の東野鉄道のコースで新交通システムなどを通してみてはいかがかと。昔の軌道跡をできるだけ使って経費の安い無人運転、そして
野木神社、法輪寺、黒羽の街、侍塚古墳群、那珂川水遊園などを巡ったら、地元民だけでなく観光客も期待できると思う。さすがに雲厳寺や白河の関まで延伸するのは
厳しいと思うけど、こういうネットワークができたら、旧奥州街道の活性化には間違いなくつながる。
 リニアが本当に必要かどうかはともかくとして、最も安価な地方での交通手段を開発、そして敷設するのは絶対に必要なことだと思います。



2023.06
camera: Canon Powershot G9X Mk.2 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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