大根川から鈴川


再び「鎌倉殿の13人」



2023.07.01
 暑いのは大嫌いなので、夏は基本的に大好きなお散歩もしません。
 仕事が休みの時には4時ぐらいには起きてジョギングをする。そして朝食をとったら、朝からやっているスーパーで買い物をします。そこからあとは
もう創作活動のみ、みたいな生活がしばらく続いています。
 ときどき必要なものができてしまって、100均に出かけることはあっても、それ以外の外出はしていないように思います。
 でもそれだとストレスがたまったりもするので、早朝に起きて長い距離を歩いてみることもあります。梅雨入り前、晴れ間を見つけてお気に入りの
お散歩コースに出かけました。



4:40
 この日やってきたのは小田急線「東海大学前駅」近くの大根川です。さほど大きくはない川ですが、けっこうな野鳥の宝庫で、カモやサギをはじめとして
カワセミまでも普通に飛んでいたりします。画像の右手奥に見えるのは、大山という信仰の山で春や秋はハイカーがたくさん訪れるところです。
 出発は夜明け前、夏のお散歩は朝食もそこそこに出かけて行って午前の10時ぐらいに終了みたいなペースでないと、暑くて楽しめない。



 この日は雨上がりで昼から晴れる予報ですが、朝のうちは風があってけっこう涼しい。
 もうお散歩するならこの日でしょ、みたいな感じです。



 あたりは広大な水田のひろがる金目という地区です。
 遠くにまだ夜の明けていない富士山が見える。なかなかに絶景です。
 このあたりからお散歩コースの選択肢は2つに分かれます。このまま大根川をすすむか、南下して佐奈田与一(源頼朝が最初に挙兵したとき、孤軍奮闘して
窮地を救った武将)の居城だった真田城を経由して金目観音方面に向かうかです。
 今回はそのまま川沿いにどこまで行けるか試してみることにしました。
 もし途中で暑くなって歩くのが嫌になったら、そこでお散歩旅は終了という適当な計画です。



 しばらく進むと平塚市の岡崎公民館があって、その敷地内に岡崎四郎義実の像があります。平安末期から鎌倉時代、この一帯は岡崎氏の所領で、近くには
彼の居城もあった。
 頼朝が最初に挙兵したとき、義実は嫡男である与一とともに頼朝のもとに馳せ参じますが、石橋山の戦いで惨敗。嫡男である与一は戦死、頼朝は七人の武将
とともに安房の国に逃れたという話が伝わっています。
 その後は安房で再挙兵して鎌倉幕府の設立に至るわけですが、義実は様々な戦で活躍するも、最後まで鎌倉幕府の役職に就くことはなかったとされる。



 公民館の裏手は丘陵地帯になっていて、ここに岡崎神社がある。あまり知名度は高くないけれど807年の創建というから、近隣では最も古い神社であると思います。
 そしてこの神社のある高台には岡崎城(前期)があった。後々、もっと広い場所に移転してしまうのですが、ここからの眺めはなかなかに良いです。






 振り返るとようやく富士山の中腹から上が朝日に染まり始めた。
 久々に見る赤富士。
 この景色は鎌倉からでは見ることができない。
 もしかしたらこの地を離れたくないがために、義実は幕府の役職に就かなかったのかもしれない。ふとそんな気がした。



5:45
 この岡崎の地で大根川は鈴川に合流し、最終的には金目川となって相模湾へと注ぎます。
 こちらは里芋畑、玉のような朝露がきれい。



 この金目川から東の相模川、引地川、境川に至る間は、広大な平野がひろがるところで、相模の国においては最大の水田地帯と言えるところです。
この地域を平安時代に所領としていたのは平家の流れを汲む大庭氏で、鎌倉幕府成立以前には相模の国の最も有力な武家でした。



 中央は道祖神、奥にあるのは「大山道」の文字の記された道標。
 どうやらこの道は大山から江の島や鎌倉に向かう道のようです。江戸時代には、江戸から年間に10万人もの人々が大山詣りにやってきて、帰りに
江の島や鎌倉、金沢八景を回って帰るのが人気コースだったらしいです。



6:25
 途中の公園で朝食をいただく。
 咲き始めたカンナがきれいです。



 新幹線のガード下をくぐると、そこは古くから開けた豊田本郷というところで、鎌倉時代まではさきほどの大庭氏の所領であったところです。

 

6:30
 ここに大庭景宗を埋葬した大規模な墳墓があったという。今は微かに五輪塔が残るのみです。
 平安末期に相模の国の一大勢力となった大庭景親は景宗の三男です。



 1159年の平治の乱で源義朝は敗死し、相模の国では源氏に近かった三浦氏や中村氏などは勢いを失い、代わって平氏に近かった大庭景親は
強大な勢力を持つに至った。
 その後、源頼朝から挙兵要請があり、近隣の土屋宗遠、岡崎義実、佐奈田与一などがそれに応じたとされていますが、おそらくは大場景親に対しては
相当な不満を持っていたに違いない。景親の兄である大庭景義、豊田景俊すらも源氏側についている。

 一方でこの挙兵については、逆に当地の武将たちが景親を打倒して、豊かな所領を手に入れようと頼朝に働きかけたとする考えもあるようです。
 まあいずれにせよ出過ぎた釘は打たれるということでしょうか。
 現実、石橋山の戦いを始まりとして、相模の国の有力武将は次々と滅ぼされ、最後は北条と三浦だけになっちゃうわけで、そういう流れの中では、
身を守るために戦いには加わるけど、下手な口出しはしないと考えた武将は多いと思う。



J-DOLL (ジュンプランニング 26cm 2010ごろ)

 誰も信じられないような世の中はやっぱり嫌だね。
 そして、現実にそういう国家がまだまだこの世界にあることは悲しいことです。
 人間は過去の経験が生かせないのかな?



2023.08
camera: Canon Powershot G9X Mk.2 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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