三陸を巡る
松島から釜石まで
2023.09.13~9.15
もともと旅行は大好きだったのですが、コロナだったり、忙しかったり、あるいは近場のお散歩旅が思いがけず楽しかったりで、ここ何年かは遠方への旅行はしないでいた。
でもまあ、いつまでも同じようなところに出かけていても刺激もないので、久しぶりにお金をかけて旅行に行こうという話になりました。
目的地は三陸海岸です。震災以降の復興現場を見てみたい、あるいはドラマ「ペペロンチーノ」の撮影現場だったり、三陸鉄道、あるいは猫の島など興味あるところはたくさん
あります。
9.13 WED 天気:曇り時々晴
5:50
東北道をひたすらすすむ。やっと夜が明けてきた。
早朝4:00に自宅のある神奈川を出発、圏央道、東北道と乗り継いで宮城県の塩釜に入ったのが午前9:00過ぎ、ここまでは計画通りに事はすすんでいます。
ということであとは興味のあるところを巡りながら目的地に向かうことにします。
9:30
塩釜でいちばん有名と言えば、やはり鹽竈神社(しおがまじんじゃ)でしょう。
もともとはここには鹽竈神社のみでしたが、明治時代に志波彦神社が移ってきて、現在はこの二社ほか計六社が境内に鎮座しています。
志波彦神社は665年ごろ、鹽竈神社は820年ごろにはすでに創建されていたと伝えられている東北を代表する神社の一つです。
鹽竈神社境内には国の天然記念物に指定されている塩竈桜があり、また「塩竈みなと祭」の際には祭りの出発点となって神輿が市内を練り歩き、さらには約100隻の
船を従えて松島湾を巡るという話です。
鹽竈神社の本殿は左右に分かれていて、左宮には武甕槌神(たけみかづちのかみ)、右宮には経津主神(ふつぬしのかみ)が祀られています。こういう左右に分かれた一対の
拝殿はものすごく珍しいと思う。
神社自体のデザインや配色が実によく決まっていて、まるで宮殿のようです。
見ごたえあります。
市内にはお酒や味噌醤油の醸造元などがあって、明治以前の雰囲気を今に伝えています。
規模は大きくないけれど歴史散歩も楽しい。
10:15
さてお隣の松島町です。
松島というと、福浦島や観光船などが有名なのだけど、自分たちは少し地味な雄島の方を散策しました。雄島は松島の地名の発祥ともいわれる松がたくさんある島です。
島に渡るために架けられたこの赤い橋は渡月橋といって悪縁を絶つ縁切り橋ともいわれているそうです。
この島からもきれいな砂浜や松島湾を見渡すことができます。
また松尾芭蕉やその弟子の河合曽良の句碑などもあります。
この島自体は巨大な岩でできているのですが、あちこちが削られていて様々なものに加工されています。
死者の浄土往生を祈念した石の塔婆、その昔は108もあったという岩窟、五輪塔、石仏などなど、見るものを圧倒するような迫力があります。
中世の松島は「奥州の高野山」と称される死者供養の霊場だったそうです。
「松島や鶴に身をかれほとゝぎす」 河合曽良
なるほど、確かにこの景色は鶴こそが最も相応しいかもしれません。
石巻港にやってきました。ここからフェリーで田代島に向かいます。
田代島は「猫の島」として有名で、そして一説には「ひょっこりひょうたん島」のモデルになったとも言われています。
フェリーターミナルの前は広大な津波復興公園になっています。
ただただ広い公園、そして沈下した結果として今も乾くことのない湿地帯がひろがる。
11:50
石巻港から網地島ラインに乗って田代島に向かいます。
画像正面に見えるのが田代島で、石巻からは1時間程度(大泊まで1250円)の船旅です。途中の景観はなかなかにきれいです。
現在は50名足らずの人口で、震災によって島を離れた人も多いと聞きます。主な産業は水産業、宿泊できる民宿や市営の宿泊施設もありますが、今回は予約が
叶わなかったので日帰り旅になります。
フェリーは早朝、昼、午後の3便のみ。だから昼の便で上陸し、午後便で帰ってくるという観光客は多いと思う。
乗船してみたら観光客と思しき方々は十数名ほどでした。そしてその半数が外国人だったから、海外でも田代島は「猫の島」として、かなり知られているらしい。
13:20
自分たちは二つある港のうち、大泊という手前の港で下船し、そのままぐるっと島を一周する予定です。だいたい徒歩で3kmほどだから、2時間の滞在時間でちょうど
ぴったりな感じです。
大泊は今では本当に小さな集落になってしまったけど、昔は島の中央に続く結構大きな集落だったらしいです。
沿道にはお間も点々と住居跡が残ります。
そのまま島の中心部にある猫神社(美與利大明神)、全国的にも珍しい猫を祀った神社です。小さな神社ですが猫の置物がたくさん置かれていて独特な雰囲気です。
この島では養蚕業が盛んだった時期があって、蚕を天敵のネズミから守るために猫が飼われていた。また漁師たちは猫の動作から天候の変化や豊漁・不漁などを
予測したことから、猫は島民からは守り神として大切にされてきたということです。
この画像の猫はじっとして動かない、するどい眼光でこのあたりの主かもしれないと思った。
少し歩くと「島の駅」という食事処に出ます。でも残念ながらこの日はお休み。
ただこのあたりは本当に猫が多いところで、あちこちでごろごろしている風景を見ることができます。きっとこのあたりでいつもご飯をもらってるんだろうな。
ちなみにこの島の駅は小学校の跡地にあります。校門や二宮金次郎像などが残っている、もしかしたら建物自体も校舎の一部なのかもしれません。
この子たち警戒心なさすぎ。
ちなみに島のなかにも車は何台かある、大丈夫なんだろうか?
島で最も開けた仁斗田地区です。懐かしい感じの街並みが続きます。
でも今あるその住居の多くには、もう人が住んでいない。
島の中央部にはいくつもの民家跡が残っているし、小学校の跡地もある。
現在の島の人口は50名程度、猫はおおよそ100匹と言われていますが、その昔はもっとたくさんの人が住んでいて、賑やかだったに違いないです。
生活に必要なものはすべてフェリーで運ばれてくるとはいえ、やはり不便なことは間違いない。小さくて美しい島なんだけどね。
島には数軒の飲食店があるのですが、そのうちの一つ「クロネコ堂」さんにおじゃましました。自分たちはかき氷をいただきましたが、人気メニューは「猫カレー」。
こちらその昔は簡易郵便局だったようですが、今では喫茶店+田代島歴史資料館として営業しています。昔の田代島の人たちの暮らしが分かる写真が沢山ありました。
なかには学校やお祭りの風景が写っているものもあって、かつての賑わいが感じられました。
入口には親猫二匹と子猫が三匹。
入口にお人形をおいて撮影してたら、興味深そうに眺めてました。
二時間の滞在の後に再びフェリーに乗って石巻に戻ります。
三陸の海は美しい、そう思いました。
16:50
田代島から戻ってきて予約しておいたホテルに向かいます。
自分の場合には特別なことがない限り、ちゃんとした二食付きの旅館やホテルに宿泊することはなく、素泊まりか朝食付きのビジネスホテルになることが多いです。
というのも、やっぱり夜は地域の方がよく行くような居酒屋さんに行って、地元の食材を使ったおいしいものが食べたいからです。
今回予約したのはこちらの「たまほてる」(HOTEL M&K)です。
石巻の繁華街から少し離れた一駅先にあるんだけど、一泊朝食付きのダブルで9800円とお安い。
実はこのホテルは動物の宿泊可、ホテルにもたくさんの猫たちがいます。
ロビーやお部屋にも猫グッズがいっぱいあって楽しい。
それを知っていて予約したた訳じゃないのだけど、この日は結局猫三昧の日になりました。
夕食は10分ほど歩いたところにある「あづみ乃」という居酒屋さんへ行きました。
実に庶民的なお店で馬刺しがものすごく美味しかった。あとはサービスでいただいたビーフシチューとホヤも良かった。二人で7700円で大満足です。
9.14 THU 天気:くもり時々晴
4:50
翌朝は習慣になっているお散歩です。
今の時期は5時ごろにお出かけすると、途中でちょうど日の出の時刻になる。駅一つ外れたこのあたりは結構地味なところで、住宅地以外には大きなお寺や
神社などもありません。
唯一近くに「石井閘門」という史跡があるみたいなので行ってみました。
こちらがその「石井閘門(いしいこうもん)」です。
石巻港につながる運河を船が行き来できるように、水位調節機能を持っているという。西洋式レンガ造りの閘門としては日本最古のものだそうです。
明治11年に着工されて今も現役、国重要文化財に指定されています。
明治になったばかりの頃に運河やこういうものができちゃうってすごいことかも。
閘門の先にある旧北上川の夜明けです。きれい。
明治43年は全国で大水害が発生した年で、この北上川でも大きな被害が出た。そこで明治政府はあらたに少し上流で流れを分岐し、本流を直接太平洋に
流れ込ませるという工事を行ったそうです。
今はこうやって穏やかな流れだけど、以前はもっと激しく流れていたってことなんだろうと思います。
今の生活って結局は過去の人たちの苦労によって成立しているわけで、今生きている我々も未来の人々のために何ができるのかを考えなくちゃいけないよね。
戻ってきたら、ちょうど朝ご飯の時間でした。猫に囲まれての朝食です。
朝食なんだけどおかずの種類がすごい、そしてそれを平らげてゆくと次々に猫があらわれる・・・。何かこのホテルはやることが徹底しているね。
こちらは猫好きに人気があるみたいで評価も高い。
田代島観光のあとに「たまほてる」というのは、たまたま(猫だけに)だったけど、よくできた流れでした。猫好きさんにはおすすめです。
どうでも良いことですが、今日はハローキティの靴下を履いてみっることにしました。
8:05
石巻市街から約10kmのところに荻浜という小さな港があり、その突端の防波堤のから更に奥に行ったところに、今は休業中のレストランがぽつんとあります。
(防波堤のあたりに駐車場もある)
周囲は美しい入江になっていて波静か、牡蠣の棚が奥に向かって続いているようなところです。
このレストランを舞台にして2年前、宮城県発のNHKドラマ「ペペロンチーノ」が制作されました。
話としてはレストラン経営者 小野寺潔(草彅剛)が震災の不幸で酒におぼれてゆくなか、妻の灯(吉田羊)の支えや様々な人物との出会いの中で再び
レストランParadiso を再興させてゆくというものです。
もともとこのレストランは Reborn-Art DINING という、2016年に始まる石巻市街や牡鹿半島を舞台にしたアート、音楽、食の総合芸術祭のためにつくられた
ものだったそうですが、この1年間は使われていないようです。
床板も浮いてしまっているところがあって、自分としてはメンテナンスしなければいけないような時期に来ているように見えました。
少し離れたところには、ドラマには映っていなかったかったWhite Deer (Osika)という巨大な造形物があります。
あたりには波をかぶって枯れ、白化しつつある流木が点々と残っています。
今ここにいるのは我々だけ。
作者は名和晃平、鹿は古来より「神使」「神獣」としてアニミズムや神道のなかで親しまれてきたという。
広大な空を仰ぎ見る姿は印象深い。
復興を遂げつつある三陸にあって、内外からの観光客を呼び寄せる目的で計画されたアートフェスティバルだったわけだけど、ご存じの通りコロナの関係で
思うような成果を出せなかったんだろうと想像します。
特にこのWhite Deerがここに設置された年は2019年。
ドラマの放送は2021年。
そして自分がここにやってこれたのは2023年です。
ドラマ「ペペロンチーノ」はわずか60分の短編だったけど、美しく印象に残るドラマでした。
遅くはなりましたが、やっぱりここを訪れて本当に良かったと思いました。
ドラマのシーンを思い出して少し胸が熱くなりました。
2年前に制作されたNHKドラマ「ペペロンチーノ」の撮影場所となったレストランや、 Reborn-Art DINING の展示の一つ White Deer (Osika)は荻浜港から更に奥に
入ったところにあります。
この港の入口はこんな感じです。
これだとこの先にレストランや White Deer があるということを知らなければ、とてもじゃないけど入ってゆこうとは思わないでしょう。
港は高さ10m、厚さ1mほどのコンクリートに囲まれ、出入口には厚さ20cmほどの鉄の扉がいざという時には閉じることができるようになっています。
港以外の海岸線は幅30m、高さ10mほどの防潮堤が連なり、その背後の平地はほとんど更地の状態になっていて、ところどころに作業小屋があるという感じです。
昔ここにあったはずの集落はすでに高台に移転してしまっていて、おそらくは景色そのものが一変してしまったと思う。
話としては聞いていたけど、現実に見る景色は想像を超えていて、のどかな漁村の雰囲気などは全くなくなっていました。
9:50
そのまま県道238号線を海岸沿いに進みます。
ここは北上川(新)を渡ったところです。左手は広大な水田、右側は北上川河口の葦原。野鳥の宝庫であるとともに、多種多様な魚介類の稚魚が集まり、「魚たちの
ゆりかご」とも呼ばれているそうです。
このあたりも大きな震災の被害を受けたところで、近くには震災遺構として残る旧大川小学校もあります。津波は大きな河川を遡り、かなりの上流でも大きな被害を
出すと言われています。
画像からは分かりづらいですが、この県道は水田や北上川の水面より数m高い土手の上につくられていて、防潮堤や防波堤と同様の働きをします。
10:30
こちらは南三陸町で高台に新たにつくられた商店街です。現在28店が営業し、佐藤信二常設写真展示館「南三陸の記憶」や付近には震災資料館の「南三陸311メモリアル」
もある。
そして現在、一帯は道の駅になっていて、たくさんの人が訪れるような場所になっています。
この商店街でお茶と和菓子を買って旧漁港のあった場所に向かいました。
防潮堤の上にはイースター島のトゥキー族が製作した本物のモアイ像があります。
チリ共和国と南三陸町の友好の証、震災復興のシンボルとして2013.05.25に贈られたものだそうです。これまでは基本的にモアイは門外不出であったと聞きます。
ちなみに「モアイ」とは、イースター島のラパヌイ語で「未来に生きる」という意味を持っているそうです。
南三陸町の中心街は志津川地区にあったのですが、震災後は更地になって、今は震災復興祈念公園として整備されています。
高さ10mほどの防潮堤に囲まれた公園の一角には震災遺構の「南三陸旧防災対策庁舎」があります。
志津川地区に襲来した津波は、その高さの平均が16.5mと言われており、この3階建て庁舎の屋上の高さを2mも上回っていました。助かった職員はこのアンテナに
つかまることができた人と、手すりで必死に耐えられた人たちだけだったといいます。
1F、2Fの非常階段や鉄骨の構造物は漂流物によって破壊されたままの姿で残っており、いかに津波の勢いがすごかったかを物語っています。
当時、資料によれば南三陸町の津波による死者数は566名、行方不明者数が310名と伝えられています。
この南三陸町での出来事であったかどうかまでは覚えていませんが、11年前の3月、自分はリアルタイムで送られてくる現実とは理解しがたい映像を、TVでじっと
見ていた記憶があります。
沖から押し寄せる津波が映し出される。
ヘリはその状況を沖合から撮影し続ける。その前方には街並みがある。
取り残された人々、渋滞して全く動かない車の列。 そこに容赦なく津波は街を襲う。
今やっとその記憶がこの地の景色と結びついて、起こったことの真実を少しだけ体感できたような気がしました。
合掌
気仙沼にはいったところで美しい浜うを見つけました。そこでは今も枯れることなく松が生き残っていました。
三陸を巡る旅は陸前高田へと続きます。
最初は松島を訪れたり、猫三昧だったりしたけれど、だんだんと本筋の「大人の修学旅行」になってきました。
13:30
やってきたのは道の駅「高田松原」、といってもこの一帯には奇跡の一本松をはじめとするいくつもの震災遺構と東日本大震災伝承館があることの方が有名だと思います。
周辺は公園としてきれいに整備されていて、ただただ海に続く広大な芝の平原にまずは驚くばかりです。
海に向かって開けた空間は「追悼の広場」と呼ばれ、ここから「海を望む場」にかけていくつかの献花台があり、この日もいくつかの花を手向けられていました。
こちらは防潮堤を登り切ったところにある「海を臨む場」です。
陸地側に180°の平地がひろがり、点々と震災遺構を望むことができる。でもその広大な空間はとても1枚の写真には収まりきらない。
前方には更に広い海原がひろがります。
この向こうから津波はやってきた。
ここはもともと「高田松原」と呼ばれる景勝地で、震災以前には7万本もの松が自生する美しい海岸だったそうです。そのすべてが失われた今、ここには4万本の松が
植林されて少しずつ成長しているところだそうです。
この海岸近くにあったはずの住宅地や市街地はすっぽりと失われ、その多くはここから1kmほど離れた高台に移転しているということでした。
こちらはタピック45という建物で、震災以前は「高田松原」という道の駅だった。
建物には赤く「津波ここまで 14.5m」と記されています。おおむね鉄筋の建造物なら3Fまですっぽり沈むことになります。
こちらは津波によって破壊された「陸前高田ユースホステル」、鉄筋の建物でもこれだけ大きな被害が出ている。そしてその右奥に見えるのは「旧陸前高田市立気仙中学校」。
津波に飲みこまれた7万本の松のうち、ただ1本だけ残った「奇跡の一本松」。 「津波伝承館」では2キロに渡る松原に巨大な津波が襲いかかる映像を見ることができます。
すべてが奪い去られたあとにただ一本生き残った松の木、これが奇跡の出来事に思え、またこの松にどれほどの人が励まされたのか、それを少し実感できた感じがします。
恥ずかしながら少し前までは「枯れてしまったものをレプリカとして残すことにどれだけの意味があるのだろう?」と思っていましたが、ここに住む人にとってはそれほど大きな
存在だったのだろうと思います。
「津波伝承館」では当時の貴重な映像や、津波で破壊された消防車などが展示されています。また津波そのものの起こるメカニズムなども説明されていて、勉強になる場所です。
(入場無料)
時期も時期なので修学旅行の中高生も多く訪れていました。
自分も久しぶりの修学旅行気分だったのですが、あまりに直接的で刺激的だったため、映像部分や震災発生から1週間の記録などは正視することができませんでした。
ここには、まるでモンゴルの大平原の中につくられた宮殿という感じの、ひろく美しい空間がひろがっています。
でもその美しさゆえに、悲しみや切なさ、そして多くのものを失った枯渇感で胸が痛みます。
合掌
こちらは現在の陸前高田市の市街地です。
すっきりときれいに整理されている街の様子は、関東近郊でよく見かける景色と何ら変わりはない。
16:40
三陸海岸を巡る旅の最終目的地は釜石です。
もちろんもっと北まで三陸海岸は続くのだけど、お仕事の関係でこちらが限界です。
釜石の名物は何かというと、駅を降りた瞬間にそのすべてが見えると言っても良いです。
駅前の一等地に日本製鉄の工場がある。創業170年というから、日本の近代化とともに歩んできたと言っても良いかもしれません。
駅構内にはラグビー関連の展示もあります。ここ釜石を拠点とした日本製鉄釜石シーウェイブスはジャパンラグビートップチャレンジリーグに所属するクラブチームです。
自分としては、その前身である新日本製鐵釜石が日本選手権で7連覇した時代のことが思い出される。あの時代はすごかった。そしてその歴史はレジェンド松尾雄治を抜きに
しては語れない、まさに元祖ミスター・ラグビーだったなあ。
こちらは魚市場です。三陸の海産物なら何でもそろう。
実は13年前に釜石を訪れたことがあって、この市場内でウニチャーハンを食べたことを覚えてる。
海岸の多くの街が高台に移転するなか、ここ釜石では震災を経て以前と同じ場所に同じように建物があることが、ちょっとした驚きです。もちろん被害は少なからず
あったはずなのに・・・。
こちらは釜石市民ホールTETTO、その奥に見えるのはイオンタウン、こちらは13年前にはなかったと思う。震災のあとに誘致、建設されたんだろうと思います。
震災の傷跡がこのあたりでは不思議なぐらいに感じられなくなっている。
市民ホール内にある「MIFFY CADE かまいし」も新たな観光スポット、カフェは時間外で入れませんでしたが、お土産コーナーではMIFFYがいっぱい。MIFFY大好きなので嬉しい。
洗練された街の景色は、三陸海岸の中核と言っても良いのでしょうね。
その晩は飲み屋街で夕食です。
こちらも以前と変わらぬ場所にありました。ただお店も以前と同じというわけではなく、やはり入れ替わりはありそう。
そのなかの1軒「よしよし」というお店に入りました。こちらのお店はすごいの一言、何を食べても美味しかった。
手前にある鮎はご主人が釣ったものだそうで25cmぐらいある大物、奥は三陸の魚介の盛り合わせ、その他、ばっけみそとクリームチーズ、パドロンのから揚げとか、
ここに来ないと食べられないようなものがある。
飲み物は遠野ホップ焼酎「まりこ」のハイボールが美味しかった。そしていわゆる東北の銘酒がずらっと揃っていて、締めに飲んだのはなんと入手困難なはずの
イチローズモルト(800円!)でした。
食べすぎ飲み過ぎと思ったのですが、二人で1万円ちょっと。ここはすごいかも。
「よしよし」というお店でおいしいものをたくさん食べ、そして美味しいお酒をたくさん飲んで良い気分です。ホテルは駅前にあって、繁華街からは少し離れたところにあります。
少し良い気分でホテルに向かいます。
途中コンビニなどで更にハイボールなどを購入した。
13年前、自分は花巻から遠野、釜石というコースでここまでやってきたことがあります。
そして釜石で宿泊したのがこのホテルです。今は名前が変わってしまったけど間違いはない。それからしばらくして震災が起こり、このホテルも水浸しになってしまった
景色をテレビで見ました。
今回もここに宿泊したかったのですが、予約は取れませんでした。
実は今回の旅でなぜこの人形を選んだのかというと、13年前に連れてきたのもこの娘だったからです。
実はこの画像、今回撮影したものでなく、当時このホテルの部屋で繁華街を背景に撮影したものです。
9.15 FRI 天気:くもり一時雨
5:20
翌朝は例によって早起きして港方面にお散歩です。
国道283号線に沿って日本製鉄をはじめとする様々な製造会社やガス会社などが立ち並び、いくつもの白煙が上がっている。釜石は日本の根本を支える都市である
ことに間違いない。
釜石の中央を流れる甲子川を渡る。するとそこに見えてきたのは河口に架かる巨大な水門でした。
調べたら、こちらは2年前にできたばかりの甲子川水門だそうで、もちろん津波の被害を避けるための設備だそうです。
そして港自体は高さ10m、厚さ1mぐらいのコンクリートの壁に囲まれている。
そしてその壁の背後には小高い丘があって、いざという時の避難場所となっています。
海岸近くにもマンションはあるのだけど、1Fは住居スペースではなく駐車場になっていて、太いコンクリートの柱で2F以上を支えている。
更にその後方にはこういったコンクリートのゲートがあって、工場や市街地への津波の侵入を妨げる仕組みがある。
なるほど、釜石は高台への移転をしないで、この地に留まるという選択をした。だからこそこういった安全設備を二重、三重にしていざという時に備えているというわけですね。
高さ10mの高架された道、その下の巨大なコンクリートの建造物。
このあたりの風景は港というより、むしろ「要塞」と呼ぶにふさわしい感じがします。
こちらは13年前、夕暮れ時の港の景色です。
普通に船のあるところまで歩いてきて、こうやって写真を撮っていた。
震災は少なからず人間の考え方も変えてしまったんだろうと思います。
そして太平洋の南岸でも地震や津波の発生が予想されている訳だけど、実際にここまでの備えをしている海岸の街や港は存在しないという現実があります。
明日に備えるという意味で、やっておくことはまだまだありそうな気がしました。
なかなかにインパクトのある旅も今日でおしまいです。昼頃までには那須に戻るつもりです。釜石というと三陸海岸のほぼ真ん中なので、続きはまたのお楽しみ
ということにしたいと思います。
帰り道はちょっとだけ立ち寄りたいところがある。
復興のシンボルとも言われる三陸鉄道の運行再開ですが、自分はまだ三陸鉄道に乗ったことがない。
8:15
車でやってきたのは三陸鉄道リアス線の「恋し浜駅」です。あいにくの曇り空ですが、ここから「盛駅」までの間を往復しようと思います。
もともと1985年に駅ができた時には「小石浜駅」だったそうですが、地域住民の方が駅誕生を祝って詠んだ短歌に「恋し浜」という表現があり、ブランドホタテ「恋し浜」にも
ちなんで改名されたそうです。
話によれば恋愛のパワースポットとして、この「恋し浜駅」は人気上昇中だそうです。
駅名表示もおしゃれ、すぐ近くには「幸せの鐘」もある。
小さな駅舎内には小さな神社もあって、恋愛祈願の「ホタテの貝殻」が吊るされている。絵馬のかわりというわけだね。
晴れていたならもっときれいな海岸線が見られたんだろうなあ、でもこればっかりはしょうがない。
このあと小さな漁港のある海岸まで歩いてみた。
やはりここでも津波の被害が出たようで、漁港は10mの高さのコンクリートの壁で覆われていました。出入口には30cmもあろうかという巨大な鉄の扉がある。
そうこうしているうちに、9:06発の盛駅行の車両が到着しました。ここから盛駅まで15分の旅です。
半分はトンネル、ちょっとだけ海が見えてみたいな感じです。あっという間に盛に到着です。
折り返しの車両の出発までの自由時間は40分です。
9:15
レトロな景色がいっぱいですが、すべてを見ている余裕はないです。有名な酔仙酒造も近くにあるのですが、とても立ち寄る余裕はない。「雪っこ」好きなんだけどなあ・・・。
盛駅のある大船渡はリアス式海岸の奥深いところにあるのですが、この盛りあたりまで津波は川を遡ってきたといいます。
こちらは駅前の風景右側はJR「盛駅」です。南三陸町からこの大船渡までの間は震災によって鉄道は失われてBRTに置き換えられました。
左側は三陸鉄道の「盛駅」、ここが三陸鉄道リアス線の起点で久慈までの間、全長163kmという日本で一番長い第三セクター鉄道が運行されています。
結構この日も鉄道ファンが訪れていました。
2Fから見るとこんな感じです。左奥に見えているのが待機しているJRの赤いBRT、もともとこの道は線路だった。
そして屋根でほとんど隠れてしまっているけど、左下にちょこっと見えているのが三陸鉄道の車両です。
左はBRTの拡大画像・・・、やっぱりバスだね。
駅構内には大船渡のサンマをPRする犬たち。今年は本当に不漁で、しかも魚体が小さいよね。
ながながとおしゃべりした三陸の旅はこれでおしまい。
でも今日紹介した「恋し浜駅」については、資料写真をかなり撮ってきました。少し難しいところはあるのですが、久しぶりに鉄道模型のレイアウトをつくってみようかと、
只今検討中です。
今回は良い意味で「大人の修学旅行」でした。勉強になることや感動がいっぱいあった。おそらく一生のうちで最も印象に残る旅行の一つになると思います。
2023.10
camera: Canon Powershot G9X Mk.2 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10
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