sae





薬師寺



<夏 個展のあと>










<秋 お散歩の記録 伊勢原・比々多ほか>

























<下野 訳時事ほか>
















<那須晩秋>
















<島田 白岩寺周辺>





















sae (TBLeague s44 ヘッドリメイク 29cm 2022 )



2024.12
camera: Panasonic Lumix DMC-GM1 12mm-32mm  /  graphic tool: GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



<伊勢原 比々多>

 

 上の画像左は遺跡の発掘件場です。
 この地域は丹沢山地の南端にあって、豊富な水源に恵まれています。だから多くの人が昔からここに住み着いたのであろうということは、容易に想像がつきます。
 一方でこれらの湧水によって地面が侵食されて、深い谷が幾筋もできているようなところです。だから大雨が降ると災害の危険度は増す。台風による被害の復旧はまだ完全に
終わってはいなかったようです。
 いつもだと秋はコスモスでいっぱいになる。でも今年はほんの少ししか咲いていませんでした。これも度重なる豪雨や台風の影響でコスモスの種や芽がすべて流されてしまったから
だそうです。



<下野薬師寺>



 飛鳥時代の680年ごろに建立されたという歴史あるお寺です。健康面で不安のある方はたいそうご利益があるというお寺です。
 でもこの薬師寺の見どころはそれだけではありません。本来の薬師寺はもっと広大な施設でした。残念ながら、1570年に小田原北条氏が攻め入った時に全てが消失してしまって
現在に至ります。
 それでもこのあたりは仏教関連の一大史跡といった感じで、その建造物跡が敷地内に点在しています。
 1300年前、ここには100m四方の回廊に囲まれた建造物群、そしてその外側に講堂、僧房、五重塔などがあったという。今となっては当時を偲ぶ遺構しかありませんが、ここは関東
一円の文化の中心であったことは間違いない。



<晩秋の那須>



 晴れのち曇りの予報だったので、早起きしてどこか紅葉のきれいなところに行こうかと思っていたのですが、起きてみたら前夜の予報よりずっと悪くなっていて、晴れ間があるのは7時ごろ
までみたい。 そこで晴れているうちに近所の早朝散歩です。

 こちらはホテルエピナール那須というリゾートホテルの前です。最初の画像にあるように、ここに石仏が3体通りを前にして鎮座していました。
 この3体の石仏の近くに「山之神神社」の案内がありました。多分正面に見えるどこかに神社があるのでしょう。案内には山の神神社は山の神、農耕の神として信仰があり、毎年9月第3日曜日
に獅子舞が披露されるとあった。

 そして神社のあるという場所に行ってみた。大きな社などはなく、マップの位置にはこの「樅の木様」がありました。
 そしてこちらにも案内板があって、「二人の平家の落人が安住の地を求めてさ迷い歩くなか、大きな樅の木を見つけてこの地に住み着いたと言われる。」という記述がありました。
 なるほど、今では那須の中心と言われるようになったこのあたりに、人が住むようになったのは平安時代末期以降ということか。

 今多くの人はリゾート地としての那須は知っていると思うけど、明治維新のときに始まった開拓の歴史や、ずっとそれ以前の長い自然とのかかわりあいまではさすがに知らないだろうな。
自分も平安時代に初めて住み着いた人がいたことを、今日初めて知りました。



<ご近所散歩>



 小田急線の「鶴巻温泉駅」前です。この通りのナンキンハゼはとってもきれい。奥に見えるのは以前ジオラマにした「白髭食堂」です。



<白岩寺周辺>



 静岡の実家に帰った時の話です。
 基本的に早朝はジョギングするかお散歩をして1日をスタートするのが日課です。ただ朝食前の1時間でそれを済ませようとすると、どうしても夜明けの前の出発になってしまいます。
 ここはどこかというと、島田市の大津谷川の土手道です。googleマップを見るとこのあたりにはたくさんのお寺や神社、そして古墳などがあったりする。
 最初の画像にあるのは1356年に智圓房日祐上人によって開山されたという法信寺というお寺です。開創から長い年月を経た歴史を感じさせる佇まいです。



 白岩寺は隠元禅師を宗祖とする黄檗宗の末寺で、山号は都智山、1600年代の創建です。
 但し1714年に火災で伽藍は焼失し、その後は彦根城主の寄進により再建されました。
 本堂の前にはたくさんの千羽鶴などが奉納され、人々の信仰が厚いことを物語っています。この日も早朝に関わらず、何人もの人が訪れていた。そして本堂の右手に見る石仏の
存在感がすごかった。
 ここもまた死者の世界に近い場所なのかな。

 あとで調べたら、このお寺には円山応挙の作と云わる乱れ髪の湖畔に立つ幽霊の掛け軸があるそうで、この掛け軸には次のような言い伝えがあるという。

 江戸時代、一人の若者が立派な絵描きになろうと絵の修業をつみながら一人で旅をつづけていた。しかしその旅は順調というわけでなく、彼は画が描けないまま島田宿に逗留を続けていた。
 
ある夜、用便に立った時に彼は廊下の向こうにぞっとするような女の姿を見た。
 
その女は髪を振り乱して、ふわりふわりと歩いている。青白い顔をしてやせこけた女であった。
 
若者は驚き震えたが、なんでも見てやろうという絵描きの精神が、逃げだしたくなる心をおさえて、それでもじっと目をこらして見続けた。

 
翌朝から若者はその女の絵を描きはじめた。
 
部屋に閉じこもって描き続け、何日か後にそれを完成させた。その仕上がりは、それを見た旅籠の女衆がお膳を投げ出して逃げるほどだったという。
 
だがその若者はそれを旅籠の主人に渡して旅立っていった。せっかく描いたものだったが、これはど気味の悪い絵をもち歩くのも気が重かったからである。

 
それ以降、この旅籠では良くないことが続いたので、主人はその画を他の人にあげてしまいました。
 しかしながら、この画には精魂が宿っているのか、代々の持ち主に不思議な出来事が起るため、転々と人から人に譲り渡され、最後に白岩寺に納められることになったのだという。

 この丸山応挙が描いたとされる掛け軸ですが、予約をすればその掛け軸を見ることができるそうです。でも怖いから自分は見ないと思う。














 ちなみにこちらの観音堂は再建されたものですが、当初は源頼朝が造営されたもので、ご本尊の十一面観世音菩薩には行基自らが手彫りした胎内仏が納められているという。




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