掛川 日坂・中山


島田市周辺の旅



2025.01.16
 今回は旧東海道の宿場町として知られる掛川を訪れ、そのあとで日坂宿からおとなりの金谷宿まで歩きます。この区間は旧東海道の三大難所の一つに
数えられるところで、なかなかにハードな旅でした。



2025.01.02 天気:晴れ
8:55
 新年第1回目のお散歩旅です。そこで何かお正月に相応しい企画ということで、江戸時代までの城下町、また宿場町でもあった掛川を訪れてみることにしました。



 もともと掛川城は今川家の重臣であった朝比奈熈が築いたのが最初とされ、1513年に現在の場所に移転したと言われています。
 今川家滅亡の後は徳川氏、豊臣氏と支配大名が変わりますが、現在の城の形を最終的に整えたのは豊臣配下の山之内一豊と伝えられます。
 しかしながら1854年に起きた安政の東海大地震によって、天守閣は崩壊し江戸時代に再建されることはありませんでした。

 現在の天守閣は1994年に再建されたもので、まわりは城下町宿場町の風情を感じる街づくりがすすめられており、お城は掛川観光のシンボル的な存在になっています。
 天守閣は発掘をもとに、高価な木材を使って復元されています。安易なコンクリート造りでないのが良い。



 天守閣からは城下町はもちろんのこと、遠州灘から富士山まで見渡せる眺望の良さです。



 入館料410円で天守閣のほかに本丸御殿に入館できます。

 

 なかには、今あるお城の形を作りあげた山之内一豊をはじめとした様々な歴史的な資料が展示されています。
 ちなみに一つだけ自分が助言するなら、「マイスリッパ」を持参したほうが良いと思う。特に天守閣は床がものすごく冷たくて、30分と我慢できませんでした。



 モデルドールは先日リメイクの完了した オリジナルアクションフィギュアの ikumi です。ウイッグを黒髪にしたら、もっと和服が似合うようになりました。

 

 お城とお城周辺にはフォトジェニックな場所が多くて、実のところ歴史資料などはあまり読まないで、見学時間の半分ぐらいは撮影していたかもしれません。まあ自分らしい新年の始まりということで。







10:15
掛川城を見学したあとは、贅沢にタクシーに乗って東海道「日坂宿」に向かいました。(バスは2時間に1本ぐらいしかない) ここからおとなりの金谷宿まで、東海道を歩いてみようと
いう訳です。



 日坂宿の西の入り口にある事任八幡宮(ことのままはちまんぐう)、この地に建立されたのは807年と伝えられるとっても古い神社です。



 何本もの巨木が天に向かって伸び、何かここだけ空気が違う感じです。
 1月2日に訪れたのですが、初詣にやってくる人たちの長い列ができていて、お参りするのに20分ぐらいかかりました。ここは「願い事が叶う神社」として知られ
訪れる人は多いです。 (古くは枕草子や吾妻鏡などにも登場している)






10:35
 少し進むと日坂の宿に入ります。

 

 こちらは高札場、こういう街道沿いの目立つところに設置されるのが普通だった。このほかにもいくつかの古い建物や蔵、常夜灯などが残り当時の様子をうかがい知ることが
できます。



 こちらは相伝寺、それほど大きくなく田舎のお寺さんという感じなのだけど、開山は825年、もしくはその少し後だと伝わる古寺です。特に入口の六地蔵に歴史を感じます。



 こちらは川坂屋という旅籠です。江戸時代の面影を遺す建物のひとつとして保存されており、中を見学することもできます。とっても立派な建物で、江戸から招いた棟梁が
建てたのだそうです。
 この日はあいにくの休館日だったのですが、駐車場もあるので、日坂宿のお散歩の起点にすると良いと思います。



 こちらは本陣跡です。
 日坂宿は東海道のなかではいちばん小さな宿場町の一つだったということですが、大井川が川止めになると隣の金谷宿に泊まり切れなくなった旅人であふれ、たいそう
賑わったそうです。



 さてそろそろ休憩したいなと思っていたら、運よく喫茶店を発見しました。もうここしかないって感じなので迷わず入りました。
 こちら「シシリコーヒー ロースターズ」は古民家をリノベーションしたお店で、とっても落ち着けるところです。コーヒーは自家焙煎で香りが高く、抜群に美味しかった。
 ここ、おすすめです。



 日坂宿は人気の観光地ということでもないので、訪れる人もそれほど多くなく、のんびりとお散歩するには良いところです。
 旅は始まったばかり、歩くのは8km2時間の予定だけど、いつも予定通りにはゆかない。さてお昼ご飯を食べるところなんてあるのかな?





 

11:20
 日坂の宿の東側の出口は、旧国道1号線と1号線のバイパス、そして旧東海道の3つが出あうところで、我々はそのまま最も急な坂道の続く旧東海道を登ってゆく。
 これが実際の道で、「上る」というよりは「登る」と言った方が相応しい感じの道です。幅は3mあるかないか、今でこそ舗装はされているけど、葉っぱが少しでも積もっていたら
スリップしそうな急坂です。
 ここは「 二の曲り」といって、東海道の三大難所の一つである中山峠の入口にあたります。
 車の通った痕跡もあるけど、軽トラの四駆でもないと絶対に上れないし下れない、自分ならパスします。



 こんな先に住んでいる人がいるんだろうかと思って、登り続けたら数軒の民家がありました。
 この2件の間に通っている細い道が旧東海道です。



 旧東海道沿いに点々とお茶畑が続き、ところどころにこういった石碑や馬頭観音、道祖神といったものが置かれています。
 歌川広重もここを通ったことがあり「小夜の中山」の浮世絵陶板なども飾られていました。



 そろそろお昼なので食事でもしたいところですが、さすがにこういうところだと何にもない。もちろん自動販売機すらない。
 手持ちの食料は掛川城のお正月の入場記念にいただいた「おみくじせんべい」のみ。これをいただいて飢えをしのぎます。(運気が何だったかは秘密です)



 中山峠は難所として知られている一方で、早くから東海道の歌の名所としても知られており、ここで詠まれた和歌や俳句の句碑が街道沿いにいくつもあります。
「馬に寝て残夢月遠し茶のけぶり」 芭蕉

 朝早くに宿を出て、まだまだ眠く半分夢を見ているかのよう。日坂の里には月がかかり、朝のお茶を入れる煙が細く立ち上る。
 こちらは芭蕉が1854年から旅した後に書いた紀行文「野ざらし紀行」のなかの一句です。



 ほどなく峠というところで、どんとひろがる広大なお茶畑に出ました。ものすごく景色が良い。
 でもこの景色は今のもので、江戸時代の人は見ていなかったはずです。



 この橋は蓬莱橋といって、全長897.4m、世界一の長さを誇る木造歩道橋です。
 中山峠から10kmほど離れたところにあって、明治時代の初期に初めて大井川に架けられた橋です。
 対岸の中山峠を含む牧之原台地は、江戸時代までは未開と言っても良いような台地で、明治以降、江戸幕府のお侍が入植して開拓がはじまった。そしてその彼らの利便性を
確保するために架けられたのがこの蓬莱橋というわけ。

 1860年、勝海舟は徳川幕府の咸臨丸の船長として渡来し、その時にお茶が世界的な商品価値を秘めていることを認識したと伝わる。そして江戸城無血開城後は新政府の要職を
歴任し、事業の一つとして牧之原台地の開墾を発案した。
 彼の命を受けた中條景昭、大草高重らの指導する旧幕臣たちが茶畑の開墾を開始し、その後は仕事を失った川越人足たちも加わって茶畑の開墾がすすんだ。



 この間、勝海舟は旧幕臣たちから様々な問題に関して相談を受け、経済的な援助も惜しまなかったという。
 勝海舟の偉業を称えるため、蓬莱橋の入口には凛々しい彼の銅像がどんと立てられています。

 話は変わりますが、勝海舟の幼少期を描いた「小吉の女房」は良かったです。
 あのような両親に育てられたからこそ、勝海舟という人物が生まれた。そういう説得力がありました。







 話は前後しますが、「おみくじせんべい」をいただいたあたりにこんなものがありました。こちらは「夜泣き石跡」という石碑です。

 小夜の中山と呼ばれるこのあたりには「夜泣き石」の伝説があります。
 
久延寺に安産祈願にきた妊婦が中山峠を越える途中、山賊に襲われて殺されました。
 
お腹の切り口から生まれた赤ん坊を助けるため、母の魂はかたわらの石にのり移って泣きました。そしてその泣き声に気づいたお寺のお坊さんが赤ん坊は見つけ、その子は
助けられたという。


 何で「夜泣き石跡」なのかというと、ここにあった石は明治時代に東京で開催された勧業博覧会に展示され、その後は国道1号線沿いの中山トンネル脇に据えられて
しまったからです。
「えー、そんなことしちゃって良いのかな?」


 ただ当時の様子を知ることはできます。
 こちらは歌川広重の「日坂」、街道のまんなかに「夜泣き石」として知られた大石が鎮座している。遠州七不思議のひとつに数えられた伝説の石に旅人たちも思わず足を
止めたという。

 日坂の峠はアップダウンが激しく、箱根峠、鈴鹿峠と並んで東海道の三大難所といわれたところ。
 もうお昼なのに、延々とハイキングコースが続くだけで、食べ物を売っているお店が全くない。



12:40
 やっと休憩所らしき場所を見つけました。
 こちらは宝永(1704年から1710年)頃に開業したと伝わる扇屋さん、300年以上この峠を越える旅人のために茶店を営んできたという。広重の浮世絵にもその飴売りの
女性が描かれています。



 この日はまだ1月2日だったのだけど営業していて、本当に良かったです。
 こちらのお店は土日祝祭日のみ営業で、お土産や各種パンフレット等も入手できます。



 なんともレトロな看板です。
 名物「子育て飴」とは、夜泣き石の伝説にちなんで生まれたものです。久延寺のお坊さんに助けられた赤ん坊は、お乳の代わりに水飴を与えられ、大事に育てられたそうです。
 そしてその子供は立派に成長し、母の仇を討ったと云われています。



 そしてこれが「子育て飴」です。(100円) お店の人にお願いすると竹串の先に子育て飴を絡めとってくれます。
 「子育て飴」はもち米と大麦を原料にした水飴で、口にすると優しい甘味のひろがって昔懐かしい味わい。今も昔ながらの製法でつくられています。
 昔から小夜の中山名物として親しまれ、江戸時代にはこの周辺に20軒も飴を売る店があったそうです。
 やっと一息つけた感じだね。



 お店のとなりにあるのが、「夜泣き石」伝説ゆかりの久延寺です。奈良時代に行基が建立したという中山峠の頂上付近に位置する古刹です。
 関ヶ原合戦のきっかけとなる会津上杉攻めの軍を大坂より進めてきた家康を、掛川城主 山内一豊がもてなした茶亭の跡が残るところでもある。



 「夜泣き石」はこの地から持ち去られてしまった訳だけど、こちらのお寺にも「夜泣き石」と同じ形をしていて南無阿弥陀仏と書かれた石があります。
 この石は夜泣き石伝説の妊婦の供養塔だそうで、自分たちは国道1号線に戻るつもりもないので、こちらの石で代参させていただきました。







12:40
 難所である中山峠を越えると、そこには菊川という間の宿があります。
 間(あい)の宿とは正規の宿場の間に設けられた、いわば休憩所の役割を果たす街道沿いの施設です。ここでは宿泊こそできませんが、飲食は可能で、特にこの菊川は
山間の宿なので、休憩施設として結構賑わっていたという。
 風景としてはよくある農村という風情ですが、中納言宗行や日野俊基など、詩歌や伝説に詠まれた歴史ある里として知られています。



 そして菊川の宿を出ると東海道は再び諏訪原を目指して上り坂になります。
 画像の前方は菊川坂と呼ばれ、今も江戸時代の東海道石畳が残るところです。ただアスファルトの道に慣れてしまっている私たちには、やや歩きにくいのは正直なところです。





 

13:00 一つ小さな尾根を越えると諏訪原城址があります。
 諏訪原城跡は大井川を見下ろす高台にあって、武田勝頼が家臣の馬場に命じて築城したものです。今川氏が滅んだ後、駿河と遠州国境に位置するこの城を巡って、
武田と徳川の間で激しい戦い繰り広げられた。(国指定史跡)
 天守などは残っていませんが、現在も三日月堀と馬出がセットになった丸馬出や横堀が良好な形で残っています。
 ビジターセンターもあるのですが、さすがに1月2日だったのでお休みでした。



 樹木が生い茂った本丸からの景色はあまり良くない。
 眺望を楽しむなら、二の曲輪北馬出跡が良いです。大井川と島田の市街地、そして遠くに富士山が見えます。







 諏訪原城から先は、かなり急な下り坂になります。こちらの石畳は復元されたもので300mほど続く。しかも樹木で覆われた暗い坂なので、滑りやすく、ちょっとした難所であったそうです。
 途中、上の画像にある「すべらず地蔵尊」があって、滑らないように祈願するらしい。そして今はそれが転じて合格祈願に訪れる人が多いのだという。





 

13:40
 県道を渡ると駅に続く細い坂道になる。こちらが今日歩く最後の東海道です。
 当初は距離8km、所要時間2時間を予想していたけど、実際に歩いてみたら13km,3時間半でした。内容豊富なお散歩旅で、それなりの充実感もあるけど、基本的には1日がかり、
昼食を用意してのハイキングにしたほうが良さそうです。(多分、歩きなれていないと5時間ぐらいかかる)



 あとは歩くのなら夏は絶対ダメ。
 今年は4月に入るともう30℃なんて恐ろしい予想をする人もいるぐらいだから、桜の咲くころまでが限界でしょう。
 正直言えばこれから数年先、もう6月から10月ぐらいまでは屋外でのスポーツなどはできない状況になるだろうし、夏休みに遊びに行けるような場所も限定されると思う。
そうなったとき、自分はどのような夏を過ごすのか? 今から考えておいた方が良いかもしれません



2025.01
camera:Panasonic DMC-TZ60 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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