与瀬宿から小原宿


甲州街道の宿場町を歩く



2025.01.21
 冬、寒い中ではありますが、徐々に昼は長くなって、風さえなければ日差しの中を歩くのは苦痛ではない。今日は甲州街道の宿場町を巡るつもりで相模湖にやってき
ました。今日はここからスタートして与瀬宿から小原宿を巡ります。





2025.01.21 TUE 天気:晴れ
9:50
 この日、まずやってきたのは相模湖です。1947年の相模ダムの完成によって誕生し、1964年の東京オリンピックではカヌー競技の会場となった。以来、ここはカヌー・ボート
競技のメッカとなり、湖畔には貸しボート屋さんが立ち並ぶ。
 神奈川ではいちばん北にある観光地で、周辺では桜や紅葉、夏の花火、あとはワカサギ釣りやバーベキューやキャンプが楽しめるといった感じです。
 ただレジャーが多様化するなかで、やはりいつも賑わっているという感じではない。冬場の特に平日は閑散としていて、釣り人が少々いるぐらいです。

 もちろん寒いこの時期に、こちらでボート遊びするつもりはなく、自分たちはここを起点にしてお散歩旅に出かけます。幸い、駐車場は湖畔に県営の大きなものがあって、
平日は無料です。(休日は1日最大1000円 / 乗用車)



 湖畔にはいくつかの食堂やお土産屋さん、あとはその昔、デパートの屋上にあった遊戯施設が置いてあるお店とかがあって、昭和レトロそのものの雰囲気です。
 その昔はきっと賑わっていたんだろうと思う。



 その昔、東映のつくった思春期もので「ボート8人娘」という青春映画があったそうです。( 1952年製作 / 86分 )
 貸しボート屋さんの事務所前にこれが貼ってありました。当時のポスターのタイトルを作り直したものらしいですね。



 こちらは商店街の外れにある「御供岩」です。説明によれば、
その昔、この里に「ヤヨ」「キヨ」という二人の若者がいたそうで、ある晴れた日に相模川にて漁をしていると、網の中に
御神体が引っかかっていた。 この二人はすっかり恐れ尊みて村に祠を作って祀った。
 とある。そしてこのご神体を祀る祠が一瀬越という川辺の大岩の上に置かれたことから、
この岩は御供岩と呼ばれるようになった。その後のダム建設に伴い、岩はこの地に移されることになった。

 ダムがつくられて村が湖底に沈む。失いたくないものは湖底から引き上げる。ここもその一つで「ヤヨ」「キヨ」の子孫は今も精進衆と呼ばれて祭事に奉仕しているという。
 ダム建設は下流に住む人間にとっては、電力や水源の確保という意味で十分なメリットがあるのだけど、ではそこに住んでいた人たちにとってはどうだったのか、ということはいつも
気になるところです。





10:10
 さて相模湖の玄関口というと、こちらのJR「相模湖駅」です。
 駅前を東西に延びる現在の国道20号線がその昔は甲州街道で、この駅周辺のあたりが宿場町の「与瀬宿」でした。但し残念ながら今は風情を残すものはほとんどなく、本陣跡には
1本の木製案内表示があるのみです。
 相模湖ができて観光中心の街並みに変わっちゃった感じですね。



 かわってここにも昭和そのものの佇まいのお店が並ぶ。決して賑わっているという訳ではないのですが、どこか懐かしく、安心できる駅前の雰囲気です。
 右側のお店は、細々とやっていそうな(失礼)パン屋さんですが、実は地元密着の人気店みたいで、安くておいしい。レトロな感じの喫茶店などもあって、プチ昭和レトロしている感じです。
相模湖駅には観光案内所もあるので、こちらで情報を入手してからお出かけするのが賢いと思います。

 ちなみにこの日、どういうところを歩くかを予習したけど、そのまんまズバリ、それがハイキングコースになっていました。こういうことってよくある。
 さていよいよお隣の宿場町まで歩きます。

 

といっても隣の「小原宿」までは僅か1.2kmほど、甲州街道は山間を通るので小さな宿場が多く、与瀬宿も本陣1軒、旅籠9軒という規模、お隣の小原宿と合わせて一つの宿場町と
考えて良いぐらいです。



 国道20号線を歩いてもつまらないので、ここで脇道に外れて旧道を歩きます。
 いよいよ迷宮に入り込む感じだね。





10:20
 道幅は2mほどに狭くなって、一つの小さな尾根を越える。
 画像は振り返った与瀬宿側(西側)の景色です。平地ほとんどなく、わずか幅300mほどの斜面に住宅地、中央に国道20号線と中央本線、上段に中央高速道路と、その密度は
十分に高いです。



 尾根を一つ越えて再び国道20号線と合流するところ、眼下に相模ダムとそれによってつくられた相模湖が見える。けっこうな絶景です。
 甲州街道は江戸時代に整備されてとされていますが、塩山から東、こういった急峻な谷の道が続いていて難所が多く、参勤交代で利用していた藩は諏訪藩、高遠藩、飯田藩の
3藩のみだったとされる。
 それにしても、よく武田の軍勢は何度もここを通って関東に攻め入ったと思う。





10:35
 少しすすむと忽然と景色が変わります。
 与瀬宿から1.2kmほど東にある小原宿に着きました。こちらは与瀬宿よりさらに小さく、本陣1軒、旅籠7軒という規模でした。お隣の与瀬宿とは片継ぎの関係になっていて、
江戸方面から甲府方面に向かう場合のみこの宿場を利用できた。逆に与瀬宿は江戸方面に向かう時のみ利用できるという関係で、実質的には2つあって1つに宿という感じでした。
 平地が少ないから、こういうことになるんだろうね。
 上の画像は「永楽屋」という旅籠だったところです。
 いきなり山中にこういう旧宿場町の景色がひろがるなんて、本当に予想外でした。



 いちばん右にあるお店は「壽堂」という和菓子やさんで、喫茶コーナーもある。店内はレトロな雰囲気で落ち着きます。名物は酒まんじゅうで、蒸篭にはいったものが出てきます。
 通りの反対側にあるのは、半世紀にわたって地元に愛される「榎本豆腐店」です。

 

 せっかくなので寿堂さんで酒まんじゅうを買いました。とってもレトロな店内で、喫茶コーナーもあります。



 こちらも元は旅籠だった「小松屋」さん。



 宿場町は270mにわたって続きますが、そのいちばん東にあるのが小原宿本陣「旧清水家住宅」です。
 神奈川には全部で26の本陣があったそうですが、そのうちで現存する唯一の本陣だそうです。



 小さいけど、これだけ昔の風情が残っている宿場町ってほとんどないと思います。
 もしも国道20号線がこの場所をバイパスしてつくられていたなら、大内の宿みたいなことになっていたかもしれないと思う。それだけ昔がそのまま残っている。

 でも残念ながらここを訪れる人は少ない。というか、自分が知らなかったぐらいだから、知名度が著しく低いってことなんだろうな。相模湖っていうと屋外レジャー
施設ってイメージがあるけど、街並み散歩も面白いです。



 

 こちらが小原宿本陣「旧清水家住宅」です。宿場のいちばん東にある というのは、大名が最も早く宿に到着することができるという配慮なんだろうと思いますです。
 本陣前には高札場がある。掲げられた内容としては「人足の賃金の定め」であるらしい。

 本陣の建物は歴史的建造物として神奈川県の重要文化財に指定されています。
 この本陣を運営していた清水家は後北条氏の家臣清水隼人介の子孫で、小原宿が設けられてからは代々庄屋と問屋を兼ねていたという。

 

 玄関の奥にはものすごく広い和室があって、その向こうには庭園がひろがっている。おそらくはここにお殿様が宿泊したのでしょう。これだけの内容で無料で見学できるというのは
ありがたいです。

 建物はともかく立派な造りでなのですが、急な階段を登ると屋根裏は蚕部屋になっていて、養蚕の道具などが展示してありました。この一帯は平地がほとんどないので、田んぼ
などはつくることができない。そのためこの地域で生活してゆくためには養蚕業に頼らざるを得なかったという状況があるらしい。



 話は変わりますが、この甲州街道を利用していたのは僅か三藩のみ。道が険しいこともその理由であったのですが、宿泊代金が高く、遠回りでも中山道を選ぶ大名が多かったと
聞く。遠方から米や調味料などを運び込まなければならないとなると、やはり費用的にも厳しかったんだろうと思う。





 すぐ隣に「小原の郷」という施設があります。一般にはこちらの駐車場に車を停めて宿場を散策するのが良いでしょう。
 施設としては小規模ながら歴史資料館・博物館としての役割を果たしています。(入館無料)



 相模湖のできる前のこの地域の写真や自然環境、小原宿本陣に保管されていた古文書や資料等々、ここも寄って損はないところです。
 休日には新鮮な地野菜や特産物の並ぶ朝市やフリーマーケットなどが開催されるという。



 展示物の一つがこれで、江戸時代の街並みがコンパクトにまとめられています。
 ふと、先ほど歩いた小原宿の街並みと、ここに示された街並みには基本的な部分で変わりはないことに気付いた。今ある街並みはもう何百年も変わっていないということになる。
「大内の宿みたい。」

 



 更に奥の部屋には当時の宿場をリアルに再現したジオラマがある。本陣などは内部まで再現されています。 「フィギュアを置いたら江戸時代そのものだね。」
 もちろんすべての家が茅葺です。
でも低地にある茅をここまで運ぶのもきっとものすごく大変だったに違いない。いろんな意味でここを宿場街として維持するのは並大抵の苦労ではなかったと思う。





11:20
 小原宿の東の外れ、ちょうど本陣少し先から相模川に下ってゆく細い道がある。甲州街道の2つの宿を巡ったあとは、絶景が楽しめるというハイキングコースを歩きます。
 ハイキングコースといっても、途中に弁財天や石仏なども点在しているので、こちらも地元民がずっと使っていた古道なのかもしれません。

 まずは相模川にかかる弁天橋を目指します。
 球や下り坂を下り続ける。下るというのはいずれ上るということで、あまり良い気分に自分はなれません。



 観光案内所でいただいた観光マップを参考に歩くのですが、一つだけ落とし穴がありました。坂を下りきって小さな橋の手前を右に曲がるのですが、路上の道標にはそれが
欠けている。
 ということで、曲がるべきところを通り過ぎて登り始める。
 間違いに気づいたときには、もうすでに100mぐらい急な道を上っていた。



 がしかし、そのおかげてこんな絶景を見ることができました。
 通るべき弁天橋がはるか下に見え、流域が急峻なV字谷を形成していることが良く分かります。



 弁天橋の入口に戻ってきました。
 ここの高台に弁財天が置かれている。説明書きによれば江戸時代にはすでにここにあって、出世の神様のようです。



 こちらが弁天橋、なるほど弁財天の下にあるから弁天橋ということですね。つくられたのは1986年、橋長72m、幅員1.5mの人道橋で、かながわの橋100選に選ばれています。



 今度は相模ダムそのものの上を歩いて北岸に戻ります。
 堤高58.4mで、下流方面を望むとけっこう迫力がある。左手が甲州街道の通る北岸、右側には戦国時代には山城があった。この断崖絶壁の山城を北岸から攻略するのは
不可能でしょう。
 冬にやってきてしまったけど、このあたりのハイキングはもちろん紅葉の秋であることは間違いないです。



 あまり有名ではないけれど、相模湖は発電や水道のために1947年に建設された日本最初の人工湖です。
 そして第二次世界大戦の敗戦からわずか2年、当時の日本の復興の力強いシンボルであったことも間違いない。
 建設後はハイキングコースだけでなく、キャンプやボート、その他の施設があわせてつくられ、総合的なレジャー施設としてたくさんの人が訪れることになった。その後は
東京オリンピックでボート競技の会場になったりもした。
 おそらく相模湖はダム建設による観光化のモデルケースのようなものであったのだと思う。
 でも同じようなダムが日本のあちこちにできてしまうと、ここもまたたくさんあるなかの一つになってしまった。

 ダムを作ればそれが観光資源になって、人がたくさんやってくる。がんばって働けば豊かな生活を送ることができる。もうそういう時代ではないのだけど、たくさんの人が
相模ダムそのもの、あるいは復興のシンボルとして、たくさんの夢を見てきたことだけは間違いない。
 現在このあたりの住所は相模原市緑区なのですが、その昔は相模湖町といっていました。



 

12:40
  やっと相模湖の駅前に戻ってきました。
 この旅の帰りにデミタスという喫茶店でカツカレーをいただいたのですが、スパイシーで熱々、とっても美味しかった。



 また日を改めてこのあたりにやってこようと思う。まだまだ探せば楽しいとことがあるに違いないです。



2025.02
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