奥三河から伊那


戦乱と人形と古寺



2026.03.15 ~ 3.16
 ようやく寒さから解放されて、奥三河から伊那方面を旅行してきました。いつもながらではありますが、人気の観光地はなし、おもに歴史散策の旅となりました。  
戦国時代の名勝からははじまって、人形あり、古いお寺ありの盛りだくさんの旅になりました。



3.15 SUN 天気:晴れ
8:50
 最初にやってきたのは新城市にある長篠城(国指定史跡・日本百名城)です。

 

 長篠城は菅沼元成によって1508年に築城され、1560年に今川義元が討ち死にするまでは今川家の支配下に置かれていました。そしてその後は武田、徳川の間で激しい
争奪戦が繰り広げられることになる。左側の画像は本丸で奥に見えるのは史跡保存館(入館300円)です。
 建物こそないけれど、いくつもの曲輪や馬出などがきちんと保存されていている。ただ場内をJR飯田線が通っているところだけは致し方なし。



 長篠城は豊川と宇連川の合流地点にあって、場内にも水が引かれており、幾重もの堀と土塁に囲まれた堅固な城でした。



 この城の存在を有名にしたのは、やはり武田氏と小田・徳川連合軍による「長篠・設楽原の戦い」でしょう。
 今川家滅亡のあと、この城は徳川の支配下となります。
 1575年5月1日、武田勝頼は15,000の兵をもってこの城を包囲する。武田軍は城内を見下ろせる対岸の5つの砦に陣取って、戦いを優位にすすめた。対する徳川方は
奥平貞昌配下のわずか500名ではあったが、よく戦って武田軍を何度も撃退している。



 こちらは奥平勢の用いた陣太鼓、血痕が生々しく残っています。
 相次ぐ攻撃に奥平勢は次第に追い込まれ、兵糧庫も奪われたことによって、落城寸前の状況に陥る。



 5月14日、このとき鳥居強右衛門という武将が武田軍の包囲網をくぐって岡崎城に走った。
 そして家康から援軍の確約を得て城に戻る。
 但しその途中で武田勢に捉えられ、「援軍は来ないと城内に伝え、開城させたら助命する」と言われて承諾します。しかしいざ城の前に引き出された強右衛門は
「まもなく援軍は来る!」と叫んで城兵を勇気づけ、自身は武田勢に処刑されることになった。
 5月18日、織田徳川連合軍35,000が設楽原に到着、着陣する。

 これすごいよ。鳥居強右衛門から家康に連絡が入ったのが15日、わずか3日間で35,000が動くんだもの。



 5月20日、武田軍主力部隊が山を下りて設楽原に布陣。
 5月21日、連合軍側の酒井忠次の精鋭部隊が、砦に残る武田勢の守備隊を奇襲、これにより武田軍は兵糧を失う。退路を断たれ、兵糧を失った武田軍は、
織田・徳川連合軍に決戦を挑まざるを得なくなった。
 同日、武田軍は2kmにわたる馬防柵で守備を固め、3000丁の鉄砲を構えた連合軍に突撃を敢行した。そしてこの戦いが連合軍の一方的な勝利に終わったのは
ご存じの通りです。



 最後の戦いこそすごく有名で、これが後の戦い方を変えたとまで言われるのですが、5月21日の戦い自体はわずか8時間のことでした。
 状況を考えれば、当然と言える結果で、むしろ流れはそれ以前につくられていた。
 鳥居強右衛門の行動がなかったら、酒井忠次の進言がなかったら、あるいは勝頼が引き返す勇気を持っていたら、歴史は違うものになっていたに違いない。



 こちらは武田信玄の遺言書、こんなものも資料館にはありました。
 今回は先を急いでしまいましたが、近くには砦等の史跡を巡る散策コースや設楽歴史資料館などもありますので、時間があれば1日かけて、周辺を巡るのが良いかと思います。





9:35
 長篠城址の見学をしたあとは、激戦の地を巡るお散歩も考えたのですが、とても1日では周り切れそうにないので、鳳来寺方面へと向かいました。
 鳳来寺は702年に利修仙人が開山したと伝える古寺で、文武天皇の病気平癒祈願を再三命じられて拒みきれず、鳳凰に乗って参内したという伝承が、鳳来寺という名の由来と
なっている。
 また鎌倉時代には平治の乱で落ち延びた源頼朝が、僧坊の一つである医王院にて匿われたという話もある。



 ここが鳳来寺の入口にあたる笠原駐車場です。
 もともとここには豊橋鉄道田口線 鳳来寺駅がありました。すごいな長篠城址もけっこうな山の中なんだけど、渓流沿いをさらに奥に向かって車で20分、ここまで鉄道が延びて
いたなんて驚きです。
 豊橋鉄道は1900年に営業を開始し、経営の主体を変えつつも1968年まで営業を続けました。廃線の理由はやはり車社会の進展と過疎化だったそうです。



 町並みは古い、旧黒谷家などの古民家もちらほらある。
 戦国時代には武田信玄、江戸時代には松尾芭蕉、そういった幾多の歴史上の人物がここを訪れています。



 そしてこの集落には小学校だけでなく、高等学校まであったという。
 鳳来寺が運営するかたちで、1935年に鳳来寺女子高等学園が開校し、その後は県立鳳来寺高校となって2011年に廃校となる。つまりは、このあたり一帯は鳳来寺を
中心とした山岳都市みたいな感じだったんだろうと思う。





 

 このあたりが集落のいちばん奥になります。おしゃれなお店があると思ったら、硯屋さんでした。ここの硯はすごく有名なんだって。



 集落のいちばん奥に「鳳来寺山」という石塔が立つ、ここから鳳来寺本堂まで1425段の石段が待ち受けています。最初は穏やかなんだけど、それが徐々に斜度を増して
ゆく感じです。



 あたりは杉に覆われて薄暗く、ところどころに石仏や石塔が置かれていて、修行の場としての長い歴史を感じます。

 

 こちらは鳳来寺仁王門、徳川三代将軍家光の寄進によって建てられたもので、迫力ある大きな仁王像が立っています。 (国の重要文化財)





 

 樹齢800年と言われる「傘杉」、樹高は60mあるそうですが、高すぎて先端まで見えない。



 最後の登りは斜度45°ぐらいありそうな石段です。最後の最後が本当にきつい。
 しばし立ち止まっていたら、脇を短パン姿で登ってゆくひとがいました。きっと普通の人ではないなと思いました。



 そして1時間半でゴール!



 見晴らしの良い前方に見えるのは、さっきまでいた長篠城址方面だと思う。間違いなく、見に来る価値のある景色でした。
 ちなみに2415段の石段を登らなくても、山頂近くに有料の駐車場があるので、そこまで車でやってくることもできます。でもそれでは自分的には御利益がないというものでしょう。



 

 鳳来寺を訪れる人は、250mほど離れたところにある東照宮にも必ず参拝していると思う。本殿や拝殿はもちろんのこと、石柵まで含めて国の重要文化財に指定
されています。
 解説には「家康公の父である徳川広忠が、良い世継ぎを得たいと考えて、於大の方(奥方)とともに鳳来寺にお参りしたところ、その効あって家康公が授かったとされる。
そしてこれに感銘を受けた3代将軍家光は鳳来山にも東照宮を建立することにした。」とある。

 日光と同様、この奥三河にも、かつては山岳宗教都市的なものが形成されていました。
 がしかし今も使われているのは、紹介した鳳来寺と東照宮のみで、20もあったとされる寺院の多くはその姿を消してしまいました。

 

 そして建物がかろうじて残っているのは、医王院と松高院の2つのみ。
 画像の左側が医王院、平治の乱で落ち延びた源頼朝が僧坊で匿われたという逸話や、奥三河侵攻の際には武田信玄の宿泊所になったという話もある。

 

 それ以外はこんな感じで、かつて存在したお寺の名前が書かれたパネルがあるだけです。
 本来は仁王門から先に立派な寺院がいくつもあったはずなのに、今はもう杉の生える暗い山道にしか見えなくなりつつある。あと10年もしたら分からなくなっちゃう
かも知れない、結構ショッキングでした。

 調べたところによると、この原因は明治政府が1868年(明治元年)に発令した神仏分離令にあるらしい。
 これは神社から仏教的要素を排除し、神道と仏教を明確に分ける政策のことで、ここには神道を国教化して、天皇を頂点とする近代国家の体制を整えるという目的があった。
 但しこの命令は想定以上に過激化し、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく:仏法を廃し、釈迦の教えを棄却する)という運動に発展しました。これによって全国で寺院が破壊され、
一説にはその1/2から2/3が消滅したという。もちろん同時に寺院が所蔵していた貴重な仏像や宝物が失われた。

 もちろんここにある蓬莱山 東照宮は徳川家康を神として祀っていたわけで、江戸期の終了によって神仏習合のこの地では、ひときわ大きな影響を受けたと言うこともあると思う。
 明治時代の始まりって、動乱こそ起こらなかったものの、今では想像もつかないような劇的な変化の時代だったに違いない。

 そして一応言っておくと、自分は信心深くもない人間で仏教徒でもなく、極めて中立の立場で話をすすめているつもりです。
 3時間の厳しいお散歩旅が終わりました。本当は山頂を回る本格的な山岳コースもあるのだけど、さすがにやめました。



 仏教の日本への伝来は 6世紀中頃だったという。当初は従来の神で十分という考えもあったけど、聖徳太子らの働きや飛鳥寺の建立を経て、少しずつ全国に広まっていった。
 そして聖武天皇の時代には天然痘が大流行し、日本の人口の1/3が亡くなったともいう。聖武天皇は、仏教の力で国を鎮め、人々を救済するために東大寺の建立や、国分寺・
国分尼寺の建立を進めた。
 事実として、皇室には仏教推進の考えが間違いなくあった。そして同時に各地ではこれまでの神を仏の世界に取り込むことによって、地域に根付いた神仏習合の状態が生まれて
いったと考えられています。

 7世紀から江戸時代に至る1200年ほどが、現在の日本の文化的な基礎になっていると自分は思います。そしてお寺はその間、文化や寺社そのものを守り、現在の教育や福祉の
一端を担う存在であったと思う。
 神仏分離令を発端とする廃仏毀釈運動は、日本の過去の貴重な部分を消し去る結果になったことは間違いはない。これらのことが話題になることは最早少なくなっていますが、
人間の狂気はここにもあると思う。





 駐車場に戻って、目の前の「おかめ茶屋」で休憩です。
 ゆずみそおでん150円、五平餅300円。どっちも正統派の味で満足感十分でした。この店はおすすめです。





12:40
 長篠城址から鳳来寺、そして東照宮と巡ったあとは飯田方面に向かいます。このあたりは今川、武田、織田、徳川が互いに激しく覇権争いをしたところです。
 次にやってきたのは田峯城、1470年に菅沼定信が築城した奥三河における代表的な山城です。



 こちらは正面から本丸方面をのぞんだ画像です。幾重もの曲輪や堀があって、かなり堅固な城であることが分かります。
 マメザクラが咲き始めていました。

 

 本丸は一般公開されていて(入館220円)、本丸御殿、本丸大手門、搦手門が復元されています。



 お城の裏側にあたるところには物見台が立てられています。



 ここからの景色が予想以上に凄い、切り立った崖の上にあるお城から見ると、360°の視界が開けます。



 戦国時代、長篠の合戦で武田方が敗北するまでは、常に武田勢の最前線とも言えるお城でした。その緊張感が伝わってきた。



 長篠の戦いにおいては、五代目城主の菅沼定忠は、家老 城所道寿とともに武田方の一将として出陣しました。しかし武田方は大敗し、その報を受けた留守居の叔父らの
謀反にあって、武田勝頼とともに引き揚げてきた定忠は、田峯城に入城できずに信州に敗走することになった。

 復讐を誓った定忠は、1576年7月14日、ついに田峯城に夜襲をかける。そして謀反の一族96人を惨殺し、謀反を主謀した今泉道善を鋸引きの刑に処したという。
 ちなみに生きながら鋸引きされたと伝えられる道善処刑の地も近くにあったみたいだけど、自分は怖いので行ってみる気にはなりませんでした。
 忠義を尽くした定忠は最後に飯田で徳川方に捉えられたと伝わりますが、助命され最終的には徳川方につくことになったということです。



 

13:10
 こちらは田峯城主菅沼定信が荒廃した真言宗日向寺を再興して建てた田峯観音高勝寺です(1472年)。
 705年勧請と言われる『松芽観世音菩薩』と1470年勧請の『十二面観世音菩薩』を合祀安置しているという。ご覧の通り、一見してその歴史を感じるたたずまい。



 また境内には回り舞台のある芝居小屋があって、ここでは約360年もの歴史を持つ歌舞伎が今でも奉納されているそうです。

 

 田峯観音の前には「たみねテラス」というカフェがあるのですが、ここもレベルが高かった。カフェなんだけど、うど」んや蕎麦、定食などもある。ほぼすべてが手作り
だそうで、しかもリーズナブルです。
 ここでホットコーヒーをいただきました。(確か500円) おしゃれなカップとトレイ、手作りのお菓子、ふきのとうの飾り、すべてが整っていました。レベル高いです。
 田峯ってそれほど知名度は高くないけど、近くを通りかかったら、ぜひ立ち寄りたいところです。





14:25
 根羽村というところにやってきました。おそらくは観光目的でここを訪れる人は少ないと思う。



 ここに「月瀬の大杉」と呼ばれる巨樹があります。
 樹齢1800年、樹高40mあって、広角24mmのレンズでも近づいてしまうとてっぺんが入らない。長野県第1位の巨木で国の天然記念物に指定されています。
 圧倒されそうな存在感、何度か切られそうになったこともあるけど、そのたびに地元の人が動いてそれをやめさせてきた。もしかしたらてっぺんにトトロがいるかも
しれない、そういう雰囲気のある巨樹です。





15:20
 こちらは飯田市の杵原学校(旧山本中学校舎)、1949年に建てられた木造校舎で国の登録有形文化財に指定されています。
 事前に申し込んでおかないと、内部の見学はできないようですが、それでも廊下から少しだけ内部をのぞくことはできました。



 昭和末期まで利用されていた校舎は、吉永小百合さんの映画等の撮影でも使用されていて、懐かしい風景を今にとどめています。
 残しておきたい景色ではあるんだけど、老朽化が進んでいるのが気になりました。

 こういうことを書くと、管理している飯田市が手を抜いているように感じられるかもしれませんが、きっと予算の少ない中で頑張っているんだろうと思う。有形登録文化財だから、
きちんと管理すべきことは分かっていても、地方都市にあってはぎりぎりの予算でやってゆかなくてはいけない事情がある。現在使われている校舎と過去の校舎、危険性がなければ
実際に生徒のいる校舎を優先するのは当たり前でしょう。
 また校舎の前には巨大なしだれ桜があって、毎年きれいな花を咲かせているみたい。







16:00
 飯田の市街地に到着です。
 今回、奥三河から伊那を目指した理由の一つは「川本喜八郎人形美術館」がこの飯田にあるためです。川本喜八郎は人形作家として知られており、日本を代表する
人形アニメ監督でもありました。



 その代表作と言えば、やはりNHKで放送されていた人形劇「三国志」だと思う。
 今から約1800年前の中国、後漢王朝の滅亡から魏・蜀・呉の時代までの約100年間の乱世を描いたこの作品は、何度となく映画や舞台、アニメーション等々で取り上げられ、
長く愛されてきた歴史物語です。



 これは「三顧の礼」のシーンを再現したもの。
 驚いたことに川本喜八郎は、NHKから企画が持ち込まれる前から、10年がかりで主な登場人物のかしらを作っていたらしい。青年時代から中国やシルクロードに興味を持ち、
三国志こそが人形のためのドラマだと確信を持っていたからだというが、もし企画が入らなかったらどうしていたんだろう?
 この三国志で制作した人形はなんと300体だったそうです。



 人形の操作はこんな感じで両手で行う。とっても軽量で動かしやすいのですが、操作できるところが限られる。稼働できるのは基本的には顔と手のみです。



 こちらの人形はそれらに加えて眉毛が動かせるというのが特徴です。
 ただ一体の人形で、表情を変えたりするのは限界があるので、あえて顔の対称性を崩していて、右側と左側、あるいは上方からと下方からでは、人形の印象が違うようにつくって
いるのだという。
 撮影の方向で表情が変わるというわけ、なるほど、人形劇に特化されているわけだ。



 こちらは「三国志」のあとにつくられた「平家物語」の人形です。見かけはリアルな方向に向かっていて、表情もニュートラルな感じを受ける。ストーリーにあわせて上品で
芸術的な人形に仕上げたのかな?
 川本喜八郎は人形劇「三国志」終了後間もなく、またも映像化のあてもないままに主要な人物のかしらを作り始め、このとき制作した人形の総数は400を越えた。



 こちらは短編人形アニメーション「道成寺」に登場する寡婦です。
 こちらは安珍・清姫伝説をベースにしてつくられたもので、執着や情念を美しくも恐ろしく描いたこの作品は、国内外で高く評価される代表作として知られています。
 この表情がすごい、本当に生きているような圧倒的な存在感を持っている。



 自分が人形を作るようになった原点は何かというと、おそらくは子供の頃に見た人形劇が要素の一つにあると思う。「ひょっこりひょうたん島」「南総里見八犬伝」そういったものです。
 怖かったり楽しかったり、命があるかのように演ずる人形たちは、あたかも何かの魂が乗り移っているかのように見えていた。あるいは自分自身がその人形の目線で物事を見るように
なって、人形そのものが自分の分身であるかのように思えていたのかも知れない。
 もともとは表情のないはずの人形たちだけど、時々悲しそうだったり、うれしそうだったり、そう感じたりすることがときどきある。人形は自分自身を映す鏡みたいなものです。






、なぜこの飯田に川本喜八郎の美術館が建てられたのか? 川本さんは東京千駄ヶ谷の生まれで、この飯田には基本的には縁がない。
 美術館の展示の後半には、人形作りの行程の解説や、飯田と人形との関わりなどを解説するコーナーが設けられていました。

 飯田に人形浄瑠璃が伝わったのは、およそ300年前、その後は伊那谷全域に人形劇がひろまって、一時は20を越える人形座があったのだという。
 その後は一時衰退するものの、昭和30年代になって伝統芸能の保存の動きが活発になり、1979年に第1回目の人形劇カーニバルが開催され、以降毎年国際的な
人形劇のフェスタが開催される「人形劇の街」となっているのだそうです。
 申し訳ないけど、自分は全く知らなかった。





 

 あと飯田と言えば、秘境駅の宝庫として知られる「飯田線」の中核都市ということです。飯田駅に行ったら何かあるのかなと思って訪ねてみた。
 そして見つけたのは、もうぼろぼろのパネルです。井原五郎兵衛は飯田線を語る上で欠かせない人です。井原五郎兵衛は明治13年に飯田で生まれ、東京帝国大学法学科を
卒業する。しかし兄が日露戦争で戦死してしまったため、実家の漆器店を継ぐことになった。
 その後、伊那電車軌道株式会社創立に参加し、辰野〜松島間を開通させた。しかし赤字経営が続いたために、本人自らが事務所に勤務し構内の掃除をしたりしていたという。
 伊那電は少しずつ軌道が延長され、後には別会社の三信鉄道敷設の難工事に尽力し、更には豊川鉄道・鳳来寺鉄道と連絡させて、ついには豊橋駅で東海道本線と接続させる
ことに成功する。
 つまりは現在の奥三河から伊那谷の交通と経済の基本をつくった人物の一人というわけ。
 でもパネルはそろそろ新しくした方が良いと思いました。

 

 飯田に出てくるまでの間、本当に山深いところを移動しなくてはいけなかった。
 あらためて思うのは、よくこういうところに鉄道を通したなということ。飯田線は沿線に大きな都市のないローカル線でありながら、195.7kmの長距離路線で、しかも
97もの駅があるという。
 秘境駅の宝庫とまで言われているのに、ちゃんと存続できているというのが凄い。





17:40
 長野県南部の中核都市ではあるけれど、お世辞にも賑わっているとは言いがたい。5時を回ると駅前でも人通りはほとんどなくなる

 

 この日は「おぐろ川」というお店に入りました。焼き物がメインの品揃えで、コの字型カウンターの地元密着型のお店です。
 実のところ、飯田は人口1万人当たりの焼き肉屋さんの数が全国1位だそうで、「焼き肉の街」なんだそうです。オーダーしたラム肉が抜群においしかった。
 喜久水というお酒を燗していただいたのだけど、さらっとしていて辛口、焼き肉にばっちり合っていました。

 あんまりおいしかったので、帰りにコンビニで1つ買ってしまいました。
 ちなみに喜久水酒造は、長野県南部で唯一の酒造会社だそうです。





3.16 MON 天気:晴れ
6:00
 この日はコンビニへの買い出しを含めての早朝散歩から始まります。



 こちらは駅の近くにあるランドアバウトです。5本の街道がいったんここで合流し、時計回りしながら次の目的地に向かう。省エネだし信号による渋滞も皆無です。
 飯田は率先してランドアバウトを取り入れていることでも知られている。ここは中央公園に面していて、ちょっとした観光スポットになっています。



 こちらの時計塔は「ハミングパル」といって、「人形劇の街 飯田」のシンボルになっています。
 これがあることで観光客が増えるというものではないですが、やっぱり象徴的なものが何もないというのは寂しい。





 こちらは飯田市街の追手町小学校です。このあたりは飯田城の本丸周辺にあって、あちこちに歴史遺産のあるようなところです。今でも飯田は長野県南部の中心都市で、
この周辺にはたくさんの庁舎が集まっています。
 1922年にに飯田の中心地で大火があり、市街地校舎の防火対策が意識されるようになってこの小学校も1929年に鉄筋コンクリートの校舎に建て替えられました。
 これが昭和初期の小学校、それも日本では初期の鉄筋コンクリートということで、講堂とともにこちらも国の有形登録文化財になっています。この佇まいは建築後100年を
迎えようとしている今、ちょっと誇らしげに写っているような気がします。

 一般的なコンクリート建造物の寿命が50年と言われ、下水道その他の老朽化が話題になっている今、日本の初期のコンクリート建造物が今もなお、こうやって堂々とした
姿を見せているというのは驚きかもしれません。



 この小学校を少し外れると飯田城の外壁ともいえる天龍川の河岸段丘面に出ます。100mほどの高さの段丘面から、現在の天竜川と同じレベルの飯田盆地(下段)を望む。



 けっこうな絶景なんだけど、地元の人にとってはこれが当たり前なんだろうな、人通りは少ないです。
 でも自分にとっては直径100mに及ぶ巨大な観覧車から見たような夜明けでした。





8:10
 飯田からは諏訪湖方面に向かいます。途中いくつか興味のある場所を訪ねるつもりですが、とりあえずは松岡城という戦国時代のお城を訪ねるつもりです。
 google map の指示によれば、松岡城はJR飯田線「下市田駅」の西にあって、最寄りの集落から歩いて200mほどの距離の所にあるらしい。



 その最寄りの集落にやってくると、こんな石碑がありました。
 市田柿は旧市田村のこの場所に原木があって、13世紀頃には周辺で柿の栽培や干し柿の加工がなされていたことがわかっています。

 

 周囲はこんな感じで昔の景色がそのまま残っている感じです。石仏や供養塔などの様々な遺物が立ち並び、「桜堂の桜」と呼ばれるエドヒガンの古木がある。

 

 山に向かう道の途中にはおびただしい数の石の遺物が立ち並ぶ、その中を更に奥に進むと、木造の古民家のようなものがありました。
 こちらは「清水庵」という観音堂で創建等の詳細は不詳、伊那西国26番札所との解説がありました。ご本尊の千手観音像は25年ごとに開扉されているという。



 google map によれば、本丸まで距離200mということでしたが、直接本丸に向かう道はなく、迂回しながら急な坂を登ること20分でようやく頂上が見えてきました。



 大きな堀を歩いて行くと、頭上に何本もの桜の古木(エドヒガン)が立ち並んでいる。このときはまだ開花の2週間近く前と言うことで、ご覧脳な景色、ちょっと時期を間違ったなと
思いました。この山自体が桜の名所になっているらしいです。
 登り切ったところは平坦地、おそらくは天竜川のつくった段丘の上段なんだろうと思う。

 西側に桜並木が続いていて、その向こうにお寺がぽつんとありました。どうやらこちらのお寺までは車でやってくることができたようで、ここもちょっと間違ってしまった感じです。
 こちらのお寺は松源寺といって、2017年に放送された大河ドラマ「女城主直虎」で登場した井伊直親がおよそ10年間を過ごしたという。

 伊井直親は今川家の家臣で1536年に父である伊井直満が疑いをかけられて今川義元に殺害されると、さらに殺害の対象になりかねないと幼少の直親を祖父の伊井直平の縁を
頼り武田領だった松原寺へ避難させたという話ですね。



 ずいぶん遠回りしてしまったのだけど、松岡城本丸までやってきました。伊那の谷を見下ろす絶景が気持ち良い、ここにお城を構える理由が分かります。
 城そのものは、一直線に伸びる台地を堀切で区切った5つの郭がつながる連郭式のものでかなり大きい。そして空堀とともに状態良く残っています。



 松岡城は武田信玄の伊那侵攻で落城し、それ以降は松岡氏は武田氏に従った。
 信長が侵攻した際には松岡氏は信長に従う。そして本能寺の変があってからは立場を変え、徳川支配下の高遠城を攻めたことにより、最終的には改易となった。
 うまく戦乱の世を立ち回ろうとしたんだろうけど、なかなか難しい。





9:50
 今日は最終日、昼には帰途につく予定なので、松岡城を出てから訪ねられる場所はあと一つ。候補はいくつかあったけど、南信州でいちばんの古刹と言われる光前寺を
訪ねることにしました。



 光前寺は駒ヶ根市にあるのですが、その途中の景色がなかなかの絶景、光前寺通りにはたくさんの石仏が並び、背後には新緑の山々、更にその奥には中央アルプスが
連なり、雪を抱いた千畳敷カールと木曽駒ヶ岳が見える。
 画になる風景です。



 こちらが光前寺の本堂です。天台宗宝積山光前寺は不動明王を御本尊として、860年に本聖上人により開山されました。様々な歴史舞台ともなったはずのお寺ですが、残念
ながら度々の火災により多くの記録が失われ、現在に至るという。



 本堂のほか、境内には三重塔、仁王門、三門本堂などの歴史的建造物があり、庭園や境内林などを含めて、全域約6.7ヘクタールが文化財保護法による国の名勝に指定されて
います。



 光前寺には「早太郎」という山犬にかかわる伝説が残っています。上の画像は早太郎の墓所で、今からおよそ700年程前にここで飼われていました。

 その頃、遠州府中の見付天神社では田畑が荒らされないようにと、毎年祭りの日に白羽の矢の立てられた家の娘を、生け贄として神様に捧げる人身御供という悲しい習わしが
ありました。
 ある年、村を通りかかった旅の僧である一実坊弁存は、神様がそんな悪いことをするはずがないと、その正体をみとどけることにしました。
 祭りの夜に様子をうかがっていると、「信州の早太郎はいるまいな」と言いながら、大きな怪物が現れ娘をさらっていきました。
 弁存は次の祭りまでに、光前寺の早太郎をさがし当てて見付村へと戻ってきました。
 そして早太郎は怪物と戦い、人々を苦しめていた怪物を退治しました。しかしながら早太郎も深手を負い、光前寺までなんとか帰り着いたものの、そのまま息を引き取ったという。

 早太郎を借り受けた弁存は、早太郎の供養にと、写経した大般若経を光前寺へ奉納、この経本は現在でも光前寺の宝として大切に残されています。
 何かこれに近いような事件があったんだろうなって思う。



 ほかにもこの光前寺には有名なものがいくつかある。
 境内の大きなシダレザクラ、秋の紅葉、そして自生する光苔などなど、その時期にはものすごく境内が賑わうそうです。
 でもそれらについてはすべて時季外れで、ちょっと残炎だったかも。



 でもその分、静かな時間を過ごせたとも言えます。今なお樹齢数百年の杉の巨木に囲まれ、静寂な空気が漂っている空間こそが、このお寺で最も誇れる場所かも知れません。



2026.04
camera:Panasonic DMC-TZ85 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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