「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を訪ねる 4

富水から曽我



2022.11.03
 「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を訪ねるというシリーズの続編です。今回は敵討ちで有名になった曽我兄弟が住んでいた。小田原の曽我地区を訪ねます。
今も古い街並みが残っていてまるでタイムスリップしたみたいです。



11.03 THU 天気:晴れ
10:30
 今日は久々に長い距離を歩いてやろうと思って小田急線に乗りました。とりあえずの目的地は曽我兄弟の出身地として有名な小田原の曽我原です。
 ところが新松田駅に着いてみたら、乗り換えの御殿場線は50分待ちということが判明、そのまま小田急線に乗って富水駅に向かいました。
 朝夕を覗けば御殿場線は1時間に1本ということなので、こういうことはよくある。曽我の里は富水駅からでも2kmほどなので、50分待ちより30分歩いた方が
良いと判断したわけです。



 こちらは酒匂川を渡っているところです。
 地形的に言えばこの周辺は酒匂川水系の河川が形成した広大な扇状地及び沖積平野からできています。

 東海道が開通する江戸時代以前、東海と関東を結ぶ最も重要な道が足柄古道(後の矢倉沢往還)でした。鎌倉から続くいくつかの道はあちこちを経由
しながら、この酒匂川水系の扇状地、沖積平野に続き、そして最後は1本の足柄古道にまとまって足柄峠を越えます。
 足柄道は、奈良・平安の時代より官道として利用され、古事記や万葉集にも足柄という地名が残されています。

 西に向かってカメラを向けているのですが、足柄古道の通る矢倉岳、そしてその向こうに見える富士を見ながら、古の人々も西国に向かったに違いないです。
 そして今日はその逆ルートを歩いてるってことです。
 鎌倉幕府では頻繁に富士の麓で巻き狩り(軍事訓練)を行っていたというから、おそらくは武将たちも何度か見ている風景だろうな。




 国道255号線を渡っているところです。この平坦な土地は酒匂川の氾濫原になっていたところで、開発されたのは近年のこと。ここから右手は丘陵地帯が
ひろがるところで、昔ながらの集落はこちらにある。





  hitomi (TBLeagues45 ヘッドリメイク 26cm 2021)

11:40
 このあたりは鎌倉幕府が成立したころには勢力圏の西の端、いわば守りの最前線ということです。
 酒匂川のつくった沖積平野なので、湧水がものすごく豊富です。延々と田んぼがひろがっている。おそらく昔と違うのはススキに代わってセイタカアワダチソウが
繁殖してるってことでしょうか。




 2kmほどのルートなのですが神社やお地蔵様、道祖神その他、様々な神様が道端に祀られている。
 ちなみに小田原市内には252ヶ所、307体の道祖神が確認されているということですが、こちらはそのなかでも最も古い道祖神だそうです。(高田西原の道祖神)




 こちらはすぐ近くにある八幡神社です。創建等は不詳ですが、残された書物によれば平安末期とも推測されます。
 境内には3世紀ごろの弥生時代の遺跡もあったりする。
 そして近隣からは奈良・平安時代の住居跡、屋敷跡も発見され、平安時代の官街道に置かれた駅があったとの記録も残っているそうです。(高田郷)
 知らないうちに古の道を歩いていたらしい。


 

 こちらは小田原市指定天然記念物の「三島神社のケヤキ」です。小田原市内で最も巨大な樹木だそうで、大きすぎてとてもカメラにおさまらない。
 神社自体も1244年の創建と伝えられます。
 曽我兄弟の故郷を訪ねてきたのだけど、もう旅の前半だけでも十分に面白い。



12:20
 小田急線「富水駅」からJR「下曽我駅」まで2kmほどの道のりを1時間ほどかけて曽我にやってきました。
 もちろんここで有名なのは曽我の梅林です。例年2月になるとここで「小田原梅まつり」が開催され、多くの人々で賑わう。3万5千本の白梅の上に富士の姿が浮ぶのは
確かに絶景です。
 でもこの時期にここを訪れる人は少ない。



 下曽我駅に着きました。
 こちらは駅前にある曽我乃正栄堂さんです。100年以上この地で和菓子屋を営んできた老舗で「曽我せんべい」と「五郎力餅」は神奈川の銘菓として知られています。



 この下曽我の駅前についてひとこと言わせていただくなら、間違いなく「レトロ散歩」ファンとして見逃せないとことです。昭和の良き時代を今に残す素敵な場所と言い切れます。
 人口もそれなりに減少していて梅まつりのないこの時期、確かに賑わいはないのだけれど街の雰囲気がどことなく暖かい。

 

 ずばり昭和の風景そのものです。



 ここは自分の知ってる限り、一番短いアーケードです。おおよそ10mほど。


 

 最初に行ったのは宗我神社、曽我郷6カ村の総鎮守です。1028年に宗我の民が宗我都比古神社を創立したのがその始まりとされます。
 右の画像は1358年に開山したと伝えられる法輪寺で、明治維新前には宗我神社の本地仏とされていた。現在は関東九十一薬師霊場25番となっています。





 

 周辺には、まるでタイムスリップしたような昔懐かしい風景がひろがっています。

 曽我物語は1193年に源頼朝が富士の裾野で行った大規模な巻狩りの際に、兄・曽我十郎祐成と弟・五郎時致が父の仇である工藤祐経を討ち果たした伝説を
もとにしています。
 事件は伊豆にある工藤祐経の領地をめぐる、工藤祐経と曽我兄弟の祖父である伊東祐親の所領争いに始まります。この争いの中で曽我兄弟の父・伊東祐泰は
工藤祐経によって殺されてしまいます。
 その後、曽我兄弟は母の再婚相手の曽我祐信のもとに預けられましたが、彼らは静かに闘志を燃やしながら成長し、兄十郎が22歳、弟五郎が20歳の時、仇討ちを
遂げました。
 事件ののち、兄十郎はその場で討ち取られ、弟五郎は捕縛されて鎌倉へ護送される途中、鷹ヶ岡で首を刎ねられたと歴史は伝えています。
 この話はよく知られた仇討ちで、浄瑠璃や歌舞伎などで頻繁に伝えられています。
 曽我兄弟の名が今に伝えられるのは、こういった後世の芸能による伝承の影響が大きいです。




 この石は「五郎の沓石」と呼ばれ、曽我五郎が足を患った際、自分の体力が衰えていないかと心配になって、試しにこの石の上で踏ん張ったとされる石です。伝承には
「それで石が足形に窪んでしまった」と伝えられますが、それにはちょっと無理があるかもしれません。
 ただこのスポットは、足の怪我などの無事な回復祈願スポットとしてよく知られる場所ではあるそうです。


 

 こちらは小高い丘の上にある場所で、曾我兄弟の養父である曽我太郎祐信の屋敷があったところと云われるところです。
 曾我氏はこの事件ののちも幕府に対して忠誠を誓うものとして、その後もこの地に所領を代々安堵されることになります。ただ1559年の14代曽我甚五郎信正のとき
に北条氏に叛いて滅亡してしまいました。



 曽我氏の滅亡とともに、曽我氏の存在したこと示すものは一切なくなってしまいました。
 石碑や供養塔などが整備されたのはつい最近のことのようです。




 こちらはお城のすぐ手前にある、その名も「城前寺」です。
 こちらのお寺は1193年に兄弟の叔父の宇佐美禅師がその遺骨を持ち帰り、その菩提を弔ったのが始まりと伝えられます。

 

 境内には兄弟の供養墓のほか様々なゆかりの品がある。右画像は曽我兄弟の幼少期を再現したものです。



  こちらのお寺の正門前には仏様の像が据えられています。
 眼下に小田原の街と相模湾を見下ろし、それが曽我兄弟の思いを今に伝えているような気がしてなりません。



2022.11
camera: Canon Powershot G9X Mk.2 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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