「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を訪ねる 5


秦野市鶴巻から金目 厚木市愛甲 秦野市南矢名から田原



「「鎌倉殿の13人」ゆかりの地を訪ねるというシリーズの続編です。
今回も神奈川県の中西部をまわり、最後は再び実朝の首塚のある秦野市田原を訪れます。


7 秦野市鶴巻から金目
 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」関連のお散歩旅です。
 今回はまず小田急線の鶴巻温泉駅周辺にある和田義盛公ゆかりの地を訪れます。
 和田義盛は三浦党の一員で、源頼朝が最初に挙兵したときから参陣、数々の戦功をあげて初代侍所別当に任ぜられたという人物です。ところがその後は、
ドラマでも演じられたように北条義時の徴発を受けて挙兵するも、味方の裏切りもあって一族は滅亡してしまいます。

 

 戦死した和田義盛はこの鶴巻の地に嫁入りした娘に引き取られ、現在の西光寺に埋葬されることとなります。ちなみにこの西光寺は和田義盛公を弔うために
建立されたお寺です。そしてこの境内の左手奥にその墓所はあります。



 こちらは温泉旅館の「陣屋」です。こちらは囲碁将棋のタイトル戦が行われたり、おかみさんの経営手腕がTVで放送されたりと、鶴巻温泉でも中心的な存在です。
またジブリの宮崎駿監督とは親類関係にあるそうで、監督自身も子供の頃にはよくこちらに滞在されていたそうです。
 お庭では紅葉が始まっていて、これからが見頃という感じです。



 この陣屋さんのあったところには、もともと和田義盛の別邸があったそうです。



 

 少し北に向かって歩いたところに「佐野菓子店」があります。昔ながらの素朴な味でなかなかに美味しい。しかも一つ95円からと、この時代にあってはとても嬉しい
お店です。おすすめです。
 このお店の前には「神明神社」という景色の良い神社があるのですが、そこには昔「箕輪駅」という早馬の連絡所があったそうです。その昔、東海と関東を結んでいた
道を足柄道といいますが、ここがその街道上の要衝であったわけです。
(足柄道:東海道のつくられる前、律令時代から使われていた東海と関東を結ぶ主要道、矢倉沢往還)



 少し郊外に出ると、富士山のほか大山や丹沢の山々が見える。



 この景色を見ながら鎌倉幕府の武将は富士山麓に巻狩などに向かったのだろうね。そして時には戦にも・・・。





 15分ほど南に歩くと、鎌倉幕府の創立に尽力した真田与一の城、真田城跡と与一廟がある。
 更に15分ほど歩くと、北条政子が安産祈願に訪れた光明寺(金目観音)がある。



 ときどき思う、もしかしたら昔、ここにもう一つの小さな鎌倉のような景色があったのかもしれないと。



8 厚木市愛甲
 次は弓の名手として知られる愛甲三郎ゆかりの地を訪ねたいと思います。コースは小田急線の愛甲石田駅をスタートしてお隣の伊勢原駅までの間です。



 愛甲石田駅から北西に600mほど進んだところに愛甲三郎の居館跡があります。今そこには神明神社という神社の境内になっています。
 愛甲氏は、八王子を拠点とする一大勢力である横山党の一員でした。なかでも愛甲三郎は弓の名手として知られ、二俣川の合戦では畠山重忠を打ち取ったとされる。
(大河ドラマでは描かれていない)
 また二代将軍源頼家幼少時代の弓の師でもあり、幕府主催の祭事では存分にその腕を振るったという。
 しかしながら和田合戦では、北条義時の挑発に乗った和田義盛側に味方し、由比ガ浜で戦死してしまいます。



 墓所はすぐ裏手にある宝積寺で、ここには供養塔などもあります。



 

 そのまま玉川に沿ってすすむと「縁切り橋の石碑」がある。
 実は愛甲三郎自身も鎌倉幕府における北条一族の振る舞いに不満を持っていた。
 愛甲三郎が丹後の局を案内して日向薬師を参拝している最中、北条政子の差し向けた軍に丹後の局の館が焼き払われ、それがもとで愛甲三郎は北条氏と袂を
分かつこととなった。
 そしてそれを決意したのがこの橋のあたりだったという言い伝えが残っています。





 小野神社です。村の鎮守ということなのですが、創建は927年と古く、荒れ果てていたところを愛甲三郎が再建したと伝えられています。



 

 そのまま坂を上ってゆくと津古久峠に出る。ここは西の大山につながる古道で、その峠には茶屋まであったという。
 今はここを通る車さえ少ないけど、昔はここが東西をつなぐ主要道の一つだった。途中には室町時代の城跡などもあります。





 たくさん戦があって、大義名分すらないような状況下で命を奪われる。
 何が正義なのか、誰が味方なのか分からない時代だったんだろうなあ。



9 秦野市南矢名から田原
 NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」もいよいよクライマックス。
 自分としては最初、誰も信用できないドロドロの時代を軽妙な会話を交えて話をすすめるという展開や、そんなこと当時ではありえないという場面が多くて、
途中で見るのをやめようかと思っていた。

 けれどやっと最近になってドロドロはドロドロで表現するようになり、俳優自身もその世界に入り込んでいる感じになって面白くなってきた。
 ドラマでは公暁が鶴岡八幡宮で実朝を暗殺したところまでしか描かれていませんが、実際には実朝の首を搔き切って逃走したとも伝えられています。
 もしそうであるならば、暗殺でありながら首を搔き切る時間的な余裕があるなど、公暁の単独犯行としては不自然で、裏に誰かがいたのではないかと考える
人は多いです。

 またそれが誰なのか、このあたりは諸説あって結論はつけられない状況です。
 公暁はその後、実朝の首を持ったまま三浦義村の邸宅へ向かいますが、義村の送った討手である長尾貞景、武常晴ら5名によって襲われて絶命してしまいます。
 実朝の首はそこからしばらく行方知れずとなってしまった。そして実朝は首のないまま勝長寿院に葬られたそうです。

 今日の話はここから始まります。
 その後の伝承によると、実朝の首は公暁の討手の一人であった武常晴によって波多野(秦野)の地に運ばれたとされている。


 

 ここは秦野市南矢名にある東光寺薬師堂です。仁王門の建造は1774年と伝えられています。
 こちらの薬師如来像は鎌倉時代に作られた寄木造り。東光寺の開山は古く、奈良時代まで遡るとされる。 平塚からやってきたとき、これを正面に見ることができる
場所からが波多野氏の所領となる。



 三浦氏の家臣であった武常晴は、取り返した実朝の首を手にして波多野氏の館に向かっていた。
 そしてちょうどこの小川のあたりに差しかかった時、夜が明け始めた。
 おそらくは東光寺の薬師堂に見て少し安心したのであろう、武常晴はこの清流で一休みし、運んできた実朝の首をこの小川で洗い始めた。その時、夜明けを知らせる
ニワトリの鳴き声が8回響きわたり、館へ急がせたという伝説が残っています。



 

 さてここで波多野氏というのはどういう存在だったかというと、頼朝挙兵時には平家側につき、またその後の和田義盛の乱においても反幕府側でした。それでも
所領を安堵され続けたのは、この地域の実力者であるだけでなく、官位を持ち朝廷とのパイプがあったからだと考えられています。
 当時はまだ朝廷との本格的な対立は得策でないと考えていたかもしれない。
(上の画像は波多野城址があったとされる場所)





 武常晴は当時の秦野を治めていた波多野忠綱に供養を願い出て葬った。それがこちらは実朝公の首塚です。
(田原ふるさと公園内にあります)



 こちらは金剛寺、実朝公の菩提寺として建立されたのがその始まりとされる。本堂には源実朝像が安置されています。





 ここでも不思議な点は多い。まず第一に波多野氏は明らかに鎌倉の本流とは異なる。
 一説によると実朝暗殺を画策して公暁をそそのかして暗殺させたのが三浦義村であり、それを知った武常晴が反感を持って、首を秦野まで運び込んで幕府内部の
実態を伝えたのではないかとも言われている。
 ではどうしてここになのか? 北条と三浦によって幕府の実権が握られてゆくのを快く思わなかった武将は多いと思う。

 自分の考えとしては北条、三浦本家が幕府の実権を握る中、源頼朝が最初に挙兵したときに馳せ参じた岡崎、真田、土屋等々の有力武士団がこの近隣にいて、再度、
実力のある波多野氏を中心に再結集したいという願望(あるいは野心)があったのだろうと思う。そしてその旗印としての「実朝の首」だったのではないかと。

 いろいろ調べて感じたのは、そもそもこの時代の実力者には、他より上に立つことが最も大切で、人の命はとても軽いものだったということ。そして仁義とか恩とか、その後
の武家の基本的なルールみたいなものすら希薄だったように感じる。
 でもそれではさすがにまずいってことで、その後少しずつ整理されていって現在に至っているのかもしれません。
 でもいまだに大義名分すらない戦争をしている国があるというのは、やはりそこに人類としての進歩は感じられず、とても悲しいことです。  


2022.11
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