厚木


かつて江戸や京都とならんで繁栄していたと伝えられる街



<1 巨大な橋脚が林立するところ>
 厚木は神奈川県の中央にある街です。南北に延びる国道129号線はもともと八王子街道といって相模と武蔵の国を結ぶ主要道だった。そしてこの周辺には
鎌倉に向かう相模川の渡し場が点在し、古来より交通の要衝だったところです。
 そしてそれは今も変わらず、国道129のほかにも、246、412の他にも圏央道や東名、新東名、小田原厚木道路などが複雑に交差する場所でもあります。





 この厚木市戸田というところは、ICがあちこちにあって場所によっては巨大な橋脚の下に埋もれている感じがする。
 なんでこんなところを歩くのかというと、けっこうおもしろい撮影ポイントがあったり、思いがけず埋もれていた過去の遺物があったりするからです。



 新東名の厚木南ICを越えて反対側に出ようとすると、大きな歩道橋を渡り高速の下を迂回しなくちゃいけないので10分ほどかかる。極めて自動車ファーストに
つくられています。もっともこういうとこをお散歩する人はめったにいないから、文句言う人もいないかもしれません。
 ただ近隣には小学校や中学校もあるので、そこに通う生徒さんは少しかわいそうです。


sae (TBLeagueS35 ヘッドリメイク 28cm 2020)




 ようやく反対側に抜けた! 鉄塔や橋脚の下に神社がある。




 もともとは広大な相模川の河川敷だったところで、おそらくは砂利の混じったあまり土の良いところではなかったようです。だから今は埋められてしまって
いるけど、あちこちに水路跡があって何とか農業をやっていたんだろうなあって思う。 (このあたりは状況から推測するしかない)
 水田らしきものはなく、畑が少々、そしてところどころに梨を中心とした果樹園があるといった感じです。もう農村の面影は消えつつある感じです。

 上の画像は梨畑、但しすでに耕作は放棄され、セイタカアワダチソウで覆われています。すごいよ背丈にして3mを越えるセイタカアワダチソウなんてなかなかない。
 都心から1時間ということで、昭和の時代には工業化で急激に開発が進み、同時に宅地も増えた。
 ただその後はどうなったかというと、中心街はともかくとしてこのあたりから西側(東京から遠い方)の人口は減少傾向にあります。



 今目立つのは巨大な倉庫群です。良くも悪くも迫力があってフォトジェニックな場所です。
 工業団地ができたのは良いけれど、その後の海外への技術移転で産業は空洞化した。でも物流の拠点であるという特殊事情もあって、この一帯だけはこのような
巨大な倉庫群がつくられ、その景色もどんどんと変貌してきているってことじゃあないかな。



 あとは郊外型の巨大店舗も目立つ。
 国道の遥か彼方に見える高層ビルは高さ117mの厚木アクスト(旧厚木テレコムパーク)で地域のランドマーク的な存在です。バブルの頃に計画されたものの、入居する
企業が少なくて経営破綻、民事再生法の適用を申請したこともあった。
 やっぱり日本はボタンの掛け違いをしてるんだと思うよ。
 結局は技術立国なのにその技術を海外に移転し、あらたな研究や人材育成をおろそかにしてきた結果が今のような気がします。



<糟屋道>
 前回に引き続き、神奈川県のほぼ中央にある厚木にやってきました。繁華街はそれなりに賑わっているけど少し外れたら延々と住宅地が続くような場所です。

 

 こちらは糟屋道と呼ばれる古くからある道です。(厚木市林)
 江戸時代には大山に続く道の一つとして整備され、往来する人も多かったはずです。ところどころに道祖神などもある。
 とはいえ、今は住宅街を貫くごくごく普通の細い道でしかない。江戸の街が人口100万人だった江戸時代に、年間約10万人の人が大山詣りに出かけていただなんて、
今では想像もできないな。
 あとはこういう雰囲気のところではあるけど、ところどころに畑などもあって、このあたりが近年になって急激に開発された場所だということを教えてくれます。小田急線の
本厚木駅は新宿から50分、首都圏への通勤圏に含まれています。




 こちらは龍興山浄雲寺、創建年代等は不詳、江戸時代の初めごろにこの地に移転してきたのだと伝えられます。
 境内の樹木がものすごく立派で小さな森のようです。とても静かなところにあって凛としている。


ikumi ( オリジナルヘッド+TBLeague S14Aボディ 27cm 2018 
)




 このあたりは多くの遺跡が発掘されているような場所で、ここもその一つの天神山古墳です。直径が30mぐらいあって今は児童公園として整備されています。
(5世紀ごろ)



 一段高いところにあるので、住宅地の屋根越しに厚木や海老名の高層ビル群、そしてはるかに相模湾まで見渡せる。
 おそらくはこういった景色を楽しみに、江戸の人は大山に向かったのだと思う。当時は画像の桜などはなかったかもしれませんが、ここに腰を下ろして休憩した人も
多いに違いありません。



 表通りに出てみます。
 昔このあたりに住んでいた時期もあって、その風景の激変ぶりには驚きました。住宅街の西側には日産系列の工場をはじめとした工場地帯になっていたのですが、
すでにそのいくつかは撤退して、今は巨大なショッピングモールに変わっていました。




 ちなみに昔住んでいたところを記憶を頼りに訪ねてみたのですが、建物はそのまま残ってはいたものの、もはや無人の廃墟になっていました。
 大家さんの家ともども藪に包まれたその家の前でしばし佇み、時間の経過とはこういうものなのかと実感した場面でした。



 時を経てそれは少しずつ変わっていったに違いありません。
 あるとき久々にやってきたらその変化の大きさに驚いた、そんなまとめなんだろうな。





<江戸時代の繁栄はもう感じられない>
 よく言われることですが、厚木の最寄駅は小田急線の「本厚木駅」で、JR相模線の「厚木駅」は厚木市内にはなく、反対側の海老名市内にあります。またアメリカ
海軍の「厚木基地」はもっと離れた座間市と綾瀬市にまたがって存在しています。
 このあたりは何かとめんどくさい。



 さて厚木や海老名というと神奈川県の中央部では最も賑わっている地域で、一通りのものは何でもそろっている感じです。周辺にはレジャー施設もあるし、市街地
にはおしゃれなお店や有名なお店もあって、ある不動産会社の調査による「最も住みたい街ランキング」では1位にもなっているというところです。







 たとえばここ「マッカーサーギャレッジ」はマッカーサー元帥の奥様が乗ったキャデラックが置いてあるというレストランバーで、毎日JAZZの生演奏を行っています。
レトロな店内も良い感じで、多分厚木では最も知られているお店ではないでしょうか。




 自分の場合にはあまりおしゃれなお店には縁がないのですが、ラーメン屋さんはよく利用していた。「麺や食堂」「本丸亭」ほか、行列のできるお店も多い。検索すれば
すぐに10軒ぐらいは出てくると思います。
 さて興味のあるところというと歴史散歩の真似事みたいなものなので、今回はそういうところを探して歩きます。




 こちらは厚木神社です。歴史としてはここがもしかしたら一番古いかもしれません。もともとは牛頭天王社と称し厚木村の鎮守だったところで、その創建は900年代という。
そして明治になって近隣の神社と統合されて現在の形になったそうです。
 経済には関東大震災の慰霊碑や烏山藩の役所跡の碑があります。江戸時代まで烏山藩の役所で、明治になって神社の敷地になったってことですね。
 社は比較的新しいけどとても立派です。今も厚木旧市街の中心的な存在です。




 旧国道129号線を南に下ってゆく。この通りがその昔は八王子街道だったところで、歴史的な建造物がところどころに残っています。
 こちらは最勝寺という古いお寺で創建年代等は不詳、ただ上杉謙信がこの地に攻め入ったときに焼き払われたという記録が残っているそうです。
 相模川や中津川(相模川の支流)の流域は北条、上杉、武田との間でたびたび戦場となり数万の軍勢が対峙した。今では全く想像もできませんが。




 こちらは厚木熊野神社、もともとは鎌倉時代の創建と考えられている古社です。
 背後のイチョウは昔もっと立派な枝ぶりだったと思うのだけど、今はほとんど切られてしまって痛々しい感じです。



 市街地を歴史散歩するのって、やっぱり難しいです。いったん開発されてしまうと、その痕跡を探すのすら難しい。建物があると見通しが効かないので気付かない
ことも多い。つながらない道もある等々。
 そして何より想像力が必要です。
 さすがに数万の軍勢がここを通り過ぎていった情景を思い描くのは自分には難しかった。


 さて次は繁栄を極めたという、旧市街地を歩いてみます。
 厚木というと今も昔も交通の要衝で交易都市として栄えたところです。今は東名、新東名、圏央道、小田原厚木道路、国道246、129、412などが交差し、様々な企業
の物流拠点が置かれています。
 その昔も鎌倉街道と大山道が交差し、更には3つの河川が合流するところにあって、相模の国の交易の中心的な場所でした。




 相模川に出て3河川の合流するところを正面に見ます。



 このあたりにはその昔、渡し場がありました。(近くに石碑もある)
 相模川の西岸のちょうどこのあたりが昔の街の中心です。(烏山藩の役所の近く)



 江戸時代中期の蘭学者であり、また画家としても活躍した渡辺崋山は厚木の賑わいを「都とことならず」と伝えています。上の石碑「渡邊崋山滞留の地」は崋山が
滞在した万年屋という旅籠の跡地に立てられたもの。

 実のところ、この近辺には近年まで大山詣の参拝客や商人でにぎわった時代からの宿屋さんがいくつか残っていた。また昭和の時代までは舟遊びなども行われ
ていたし、芸者さんなどもいた。




 昔の記憶をたどって裏通りを歩くけど、歴史的に価値のある建物はもう残っていないし、宿屋さんや屋形船もその姿を消していました。

 

 旧市街地の商店街は残っているけど、シャッターが閉まっている店も多い。




 今そのシャッターには反映した時代の街並みの様子が描かれています。
 これなら当時の時代の賑わいも分かるとはいえ、ちょっと寂しいな。




 近年、水運はトラック輸送に変わり、大山詣りも鉄道の開通で厚木を通らなくなった。そして大正時代に入って小田急線の本厚木駅が旧市街から500m西につくられると、
旧市街地を通る人は激減したという。
 再開発を待つ旧市街地ではあるけれど、自分の目にはなかなか進んでいないような気がする。
 駅周辺には10階を越えるようなマンションの建設がすすんでいるけど、まだまだここまでは届いていない感じです。

 今人口が増えているのは東京とその近郊、あとは大阪ぐらいと聞く。
 本厚木駅は新宿まで50分ということで駅周辺なら都心への通勤圏、それより遠い1時間以上かかるようなところは神奈川県では人口の減っている地域になります。
 少し前まではそういったところにも活気のある工業団地があって、多くの人々が周辺に住んでいた。でもバブルが崩壊や円高による企業の海外移転がすすんで、
今は働く場所そのものが減っている。

 やはりこのまま東京一極集中は続くんだろうな。
 でもモノつくりをしないで、日本はどうやって国を維持してゆくんだろう?
 自分には、今の日本が「自らの手足が細ってゆくのことに気付かないタコ」になってしまっているのではないかと思うことがあります。身動き取れなくなる前にやることは
いっぱいあると思います。



2023.02
camera: Canon Powershot G9X Mk.2 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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