足柄古道 2

地蔵堂から関本



2023.02.03
 前回に引き続き足柄古道を歩きます。今回は南足柄の地蔵堂から関本までの区間を歩きます。山尾根の道は古より人の通ったところで、古い神社やお寺、
様々な仏様などがいまもたくさん並んでいるようなところです。



2023.02.03 FRI 天気:晴れ
07:50
 足柄古道を歩いてみるという話の続きです。
 スタート地点はJR御殿場線の「足柄駅」、前回はここから足柄峠を越えて神奈川県に出てくるところまででした。今回は日をあらためてそのきを歩いてみる
ことにします。

 

 小田急線の「新松田駅」からバスに乗り込みます。行き先はその名も「地蔵堂」行き、40分ほどでその終点に到着です。
 ここは県境の足柄峠から2kmほど下ったところにある戸数わずか20ほどの小さな集落です。

 

 こちらがその地蔵堂です。現在はお堂だけですが、昔はここに誓広寺というお寺があって、その地蔵堂だけが残ったと伝わります。この地蔵堂に
祀られているお地蔵様は鎌倉から室町時代の作とされ、神奈川県の重要文化財に指定されています。
 同様のお地蔵様は、足柄の山越えの登山口である小田原の板橋、静岡県小山町の竹の下にもあり、山越えの安全を祈願するために祀られたのではないかと考えられています。


 

「何にもないところかな?」
 そう思ったら大間違いで、バス停の横には美味しいお蕎麦の食べられる食堂、坂を少し下った所には手打ちうどんの店がある。



、集落の入口には古民家カフェまである。しかもどのお店もとても評判が良いみたいです。
 この日は8:40の到着なのでパスしましたが、いずれ寄ってみたいなって感じがしました。




 目的地の金太郎ゆかりの地に向かいます。
 坂道を上って振り返ると、最初はバスの待機所&駐車場と思っていたところは、学校の跡地であることに気付いた。遊具などが残っていて、小学校の面影が
あります。ここは今、わずか20戸ほどが残るだけの山間の集落です。



 最近の田舎のよくある風景としては、たとえば放棄されて久しい農機具や自転車等々があるものですが、そういったものを見ることもなく、すべてがきちんと整っている。
 地蔵堂からそのまま古道を歩き始めますが、ゴミ一つなく寂れた感じがしない。僅か20戸ほどの集落でここまでやりきってしまうのはすごいと思う。ここに住まわれている
方々の故郷の風景を守ってゆこうという意識が高いに違いないです。


 そしてこの地蔵堂は「金太郎伝説」の聖地みたいなところです。
 金太郎というと、クマと相撲をとったり、大木を引っこ抜いて橋にしてしまうという伝説の人物ですが、そのモデルになったのが坂田金時という人物です。

 

 この地蔵堂には石垣と礎石のみではありますが、その坂田金時の生家とされる屋敷跡が残っています。(画像左)
 右の画像は「金太郎の遊び石」と呼ばれる巨岩です。その昔、ここで金太郎はたくさんの動物たちと遊んだのだとか。

 地学的に言えばこちらは凝灰岩だそうで、箱根火山起源のものであるらしい。それが崩壊してこういうものが田んぼのど真ん中にある、このあたりを開拓するのに
苦労したのは間違いない。

 伝承によれば、この地で育った金時は21歳の時に平安時代中期の武将、源頼光に見出されたという。そしてその後は渡辺綱、碓氷貞光、卜部季武と並ぶ頼光の
四天王に数えられるようになって活躍し、たとえば京の周辺を荒らしまわっていた酒呑童子を退治したと伝えられています。




9:30
 足柄古道を少し外れてやってきた「夕日の滝」。
 雪がまだ残っていてとっても寒かった。金太郎の産湯はここだったと言われるが、まさか生まれたのが冬ってことはないよね。
 「地蔵堂」というところ、とっても良いです。
 金太郎伝説というのもあるけれど、そのまま古の世界に浸れる心地良さがあります。





9:50
 金太郎ゆかりの地を訪ねた後は再び古道に戻ります。
 この先は「はこね金太郎ライン」という稜線上の県道が足柄古道のコースに一致します。今はやや細い裏通りの扱いなので通行する車の量も少ないです。
途中ハンターの車とも出会ったし、こんな標識もあった。



 画像の左側が県道で右側の歩道部分が足柄古道。案の定、歩道部分には動物の足跡がたくさん残っていた。



 この少し先に矢倉沢定山城跡があります。
 室町時代後期に駿河から相模に進出してきた豪族大森氏により築かれた城で、この足柄古道の押さえの意味があったと言われています。ただ一帯は
植林された杉林になっていて当時の様子をうかがい知るのは難しいです。


 

10:40
 地蔵堂から3kmほど歩くと、相模の国の最初の宿場町である矢倉沢の集落にたどり着きます。狩川に並行する街道には関所が置かれ、周辺には宿場町が
つくられていた。
 ちなみに関所は更地となっていて、今は説明の看板があるのみです。(右画像)




 実際にこの宿場町を歩いてみます。
 すでに旅籠のようなものはないのだけど、小川が流れていて、可憐な花の咲くきれいな山間の集落と言った感じです。

 

 



 次に県道を渡って山側に出てみた。
 ここからから先に続く道は矢倉岳というハイカーに人気の登山道です。

 

 ロウバイの向こうに見えるのが矢倉岳。(画像左)
 実はこちら側にも集落があって、その昔は主に農民たちが多く住んでいたところでした。田や畑、そしてお寺や神社などもこちらにあります。
 またこちらにも関所跡があって、基本こちらは山に入る農民たち専用の関所だったらしいです。(画像右)



 こちらは矢倉沢白山神社、源頼朝に仕えていた田代孫左衛門信綱が、自身の守護神として、石橋山合戦後に勧請したと伝えています。




 上の画像は江月院、集落を見下ろす高台にあるお寺です。
 平安時代にはこの地にはすでに古寺があり、和泉式部も足柄峠を越える際にここを一夜の宿としたこともあるという。その後、宝室鎮和尚が1204年にここに光月庵と
いう小庵を営み始め、現在に至るという話です。





 

11:40
 矢倉沢の宿場を出ると再び足柄古道は稜線上に向かいます。
 県道を越えるところに芭蕉の句碑や道祖神、石碑、石仏など、様々なものが祀られたところがあります。ここはこの先に最大の難所が待ち受けていることを感じさせるような
場所です。
 地図上で調べたらJR「足柄駅」(駿河の国の宿場)から矢倉沢(相模の国の宿場)までの距離は13kmほど、コースに難所や急斜面を含んでいることなどを考えると、休憩を
含めて移動に6時間程度は覚悟していたと思う。旅の安全を考えれば、昼の時間の短い冬の移動は厳しかったと思います。





 さてここから本日のゴールである大雄山駅までは6km弱といったところ。ここから先も尾根上の道なので見通しの良い景色が続きます。
 まわりはみかん畑、お茶畑、そして雑木林といった、のどかなよくある風景です。そして後方にはいつも矢倉岳と富士山がある。

 もちろん尾根の道は平らではない。全体としては下っているけど、上りと下りが交互にやってくる。今だったら同じ標高のところを結んで平坦な道をつくると思いますが、
この道はひたすら尾根上を歩きます。
 古道とはこういうものかと思いました。




12:25
 途中で足柄神社というとても趣のある神社がありました。こちらは矢倉沢郷一帯18ヶ村の総鎮守だそうで、一説にはその創建は940年とされる古社。




 この神社を通り過ぎると、古道は点々と民家が見られるような平坦な道となります。
 こちらは古道が現在の県道と交わるところにある白地蔵尊です。
 とてもきれいに整っている場所なのですが、その中央のお地蔵様は真っ白にお化粧している。安産と授乳にご利益があって、そのお礼参りで尊体にうどん粉を
塗りつけるのが慣習だそうです。
 この地蔵尊は1659年の検地帳に紹介されているということから、少なくとも江戸時代の前期にはこのような信仰を得ていたようです。


 

 さて古の道という雰囲気はここでおしまい。ここからはできるだけ県道に並行して東に伸びる道を選んで歩きます。
 それでもところどころにこれは昔からあった道に違いないというところがあります。
 この雨坪という地区もその一つ、細く曲がった道に石垣、そして道の交わるところには道祖神、集落の中心には弘行寺という立派なお寺もある。



 あとで調べたら、こちら弘行寺の境内には徳川家康の側室だったお萬の方の母親の墓があるそうです。




 集落を下ってゆくと、古道に並行してこれまでずっと下に見ていた狩川が流れる。
 そしてそこには狩川によってつくられた河川敷があって、今は開墾されて田んぼとして利用されている。
 なるほど、だからここに集落ができたんだね。当たり前のことかもしれないけれど、これで原因と結果がつながる。
 そして田んぼの畔のほんの小さなスペースにも石の祠がある。
 今私たちはこういうものを置いたりすることはほとんどしないけど、科学の進歩していない昔は神様仏様にお願いをするしかなかった。


 

13:15
 ほどなく古道の気配は全くなくなって、伊豆箱根鉄道の「大雄山駅」に出ました。こちらは関本と言って南足柄市の中心地です。
 大雄山駅の前には金太郎の像がある。ついこの間まで金太郎は架空の人物だと思っていたのだけど、実在した人物がモデルだったんだね、勉強になりました。
 ちなみにモダンな大雄山駅は、大きな木造駅舎と車庫が市の登録有形文化財で、関東の駅百選にも選定されているということでした。

 足柄古道は江戸時代に東海道が整備されるまでは東西をつなぐメインストリートだったところ、だから道沿いには古い石仏や寺社が今なお多く残され、この道が古くから
旅人で賑わっていたことを今に伝えている。
 そして特にこの山地の区間を歩いて思ったのは、これが更に古い有史以前の道であったのではないかということです。



 縄文時代にはすでに多くの人々があちこちを往来をしていて、様々な物品や文化があちこちに伝えられていたことはよく知られていることです。
 そしてその道標となっていたのは目印となる山と川、もちろん当時は開けているような場所はほとんどなかった訳で、比較的に視界が開けていた尾根を、藪をかき
分けながら、ときおり見える高い山を目印に移動していたに違いないということです。
 富士山を正面に見て伸びる尾根があれば、それは当時の人にとって最も迷いにくい道のはずで、次第に多くの人が通るようになった。そしてそれはいつしか「足柄道」
と呼ばれるようになった。結論的には多分そんなところだと思います。
 足柄古道はこの先の松田までがその区間なので、また日を改めてお散歩する予定です。



2023.03
camera: Canon Powershot G9X Mk.2 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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