二宮金次郎ゆかりの地を歩く


南足柄から小田原北部



2024.01.27~2024.03.04
 南足柄歴史散歩をちょっと前に行ったら、最後に出てきた二宮金次郎の一生にちょっとだけ興味を持つようになりました。いかに彼が歴史上の人物として
名を残すことになったのかを探ってみたいと思います。



<南足柄 矢佐芝>

1.27 SAT 天気:晴れ
10:05
 今日は箱根外輪山の麓の集落を訪れます。
 やってきたのは三竹という地区です。いちばん近い大雄山線の岩原駅からだと2.5kmほどなので、歩いてこれない距離ではないのだけど、かなり山坂道を
登ってくる必要があります。



 集落から更に山道をすすんで600mほどのところに、平安時代に建立されたと伝えられる「御嶽神社」があります。地区の「三竹」という名前もこの神社に
由来すると言われています。
 この鳥居の後ろにそびえる「鳥居杉」樹高50m、推定樹齢が500年以上で神奈川名木100選にも指定されています。実際に見るとすごい迫力です。
 向かって左手には「お神水(おみたらし) 」という箱根外輪山起源の湧き水もあって、1年中枯れることないという。

 ここから先は箱根外輪山の領域で、植樹された杉が果てしなく続く感じです。
 少し奥に進むと光が地面に届かない、真っ暗でちょっと怖い感じさえします。







10:40
 三竹から更に奥まったところに矢佐芝という箱根外輪山の麓の集落があります。三竹地区からは更に2kmほど太刀洗川を遡ったところにあって、公共の
交通機関はない。おそらく買い物は自家用車なしではできないようなところです。
 ぱっと見の戸数は30ほどありそうですが、もちろんどう見ても空き家という家も目立ちます。

 

 ただ集落はどこもかしこもきれいに整えられていて、ゴミがないのはもちろん、集落の入口には水車を配置したビオトープがあり、集落に沿って流れる太刀洗川には
まるで和風庭園のようにきれいに整えられたところまであります。
 まだ谷合の2月ということで咲いている花はほとんどないのだけど、おそらく3月になれば花の溢れる景色になるに違いないです。



 畑の真ん中にはところどころに直径3mに及ぶような巨大な岩が転がっています。これらの石は何度となく繰り返された箱根の火山活動によるものに間違いないです。
 その昔この辺りには石丁場があり、ここで産出される石は久野石と呼ばれ、耐火性に優れ細工も容易なことから様々な用途に使用されていたと伝えられます。先に
レポートした御岳神社に向かう階段もこの石を使ってつくられていました。



 

 この地区での名産品というと「石窯パン空豆」さんのパンなんだろうな。
 無添加の石窯焼きで、うまみのあるハード系のパンです。とっても香ばしい。こういうところなんだけど、結構人気があって、ひっきりなしにお客がやってきます。



 

11:00
 集落に入ってから更に2km、林道は急な上り坂になってきた。前方に微かに見えるのは箱根外輪山の一つ明神ヶ岳です。この林道はその明神ヶ岳に続く登山道に
つながっている。



 ここにぽつんと二宮金次郎像が置かれていた。
 もともと二宮金次郎は江戸時代後期に栢山村(現小田原市)の農家に生まれた人物でしたが、洪水による被害で一家は離散、苦労して家を再興、その後は小田原藩を
はじめ諸藩、諸村を再興し幕臣となった人物です。

 かつて全国の小学校に勤勉で尊敬すべき人物として薪を背負う金次郎が設置されていましたが、その薪はこの矢佐芝山あたりで拾っていたと伝わっています。
 石丁場だったこの地域にたまたま座りやすい形に刻まれた石があって、おそらくはこのあたりで金次郎も休んだに違いないと考えられ、後に石像が設置されることに
なったんだそうです。
 小田原の栢山から大雄山線の岩原駅まで2km、そこから三竹まで2km、そして矢佐芝のこの地まで2km、つまり往復12kmも歩いたっていうことだから1日がかりだったに
違いない。そうなると往復する間に書物の一つでも読めてしまうという訳ですね。
 それが後々の偉業につながってゆく、なるほど。



<小田原 富水から栢山>

3.04 MON 天気:晴れ
9:00
 先日、二宮金次郎が薪を拾いに行ったという南足柄の矢佐芝というところを訪れましたが、実のところは二宮金次郎が偉い人とは知ってはいても、実際どういう具体的な実績
があったとか、特にその生い立ちあたりについては、自分は詳しくはない。
 ということで、二宮金次郎が生まれたという小田原の栢山というところを訪れてみることにしました。
 お散歩旅は小田急線の「富水駅」からスタートです。



 駅前にはすでに二宮金次郎ゆかりの地の案内がある。さすがに有名人という感じです。
 Googlemapをながめながら、今日はこのあたりを訪ねてみたいと思います。

 

 少し歩くと、住宅街を抜けて広大な水田のひろがる場所に出てくる。
 そして報徳小学校の少し点前あたり、Googlemapにも出ていない小さな美しい湿性公園があって、河津桜が花をつけていました。
 報徳小学校に続く清流沿いの道は「せせらぎのこみち」と名付けられていて、とても素敵な景色がひろがる。きっと夏前にはホタルがたくさん飛ぶんだろうなと思いました。





 その少し先、仙了川を渡ったところに「二宮尊徳 油菜栽培の地」という石碑と案内がありました。なんでも奉公先で夜に本を読んでいたら、主人に「百性に学文はいらない、
油がもったいない。」ととがめられたのだとか。



 その後、金次郎は自らが使う油を得るために油菜の栽培を思いたった。わずかな種から初めて、それはその後の二宮家再興につながる資金にもなったという。



 話は変わりますが、ご覧の通りこのあたりって小田急線の撮影ポイントとしてはなかなか良い。



 今でこそ、清らかな水の流れる豊かな水田地帯ではあるけれど、ここに至るまでの間には先人の多大な苦労があった。こういうところを「何にもないところ」ということも
多いけど、決してそんなことはない、様々なドラマがここで繰り広げられたんだろうと思う。





 二宮金次郎は江戸時代の終わりに近づいた1787年に、小田原の栢山村で中流の農家の長男として生まれました。しかし5才のときに酒匂川の氾濫によって田畑が流され、
14才で父親が16歳で母親が亡くなって叔父の家に身を寄せることになります。
 そしてこの年、再び酒匂川の氾濫に遭って更に家や田畑を流されてしまいます。

 今でこそ酒匂川の外は高さ10mに及ぶような高い土手で守られているけれど、当時は機械も何もなかったわけで、記録によれば長さ270mの堤防を築くのにのべ17万人
もの人が働いて完成されたという。しかも当時はコンクリートなどなかったので、2~3年もすれば修復工事も必要だった。



 洪水の起こった年、さすがに小田原藩は年貢の徴収をあきらめたという。
 しかし二宮金次郎は捨てられた苗をここに植えて、この年に米一俵を収穫したという。ここまでくると頑張り屋さんというより、むしろ執念とでもいう感じです。

 

9:40
 こちらは二宮金次郎に関する様々な資料が展示されている尊徳記念館です。(入館200円)
 豊富な資料が展示されているだけでなく、その一生がアニメ化されているので、子供にも分かりやすい。

 叔父の家に引き取られてからは、いっそう勉学に励んだという。
 ただ行燈を使って、暗くなってから勉強することは許されなかったので、片道6kmある矢佐芝までの道を歩いて薪拾い向かうときに必ず書物を持参した。それが例の像
のモデルとなったということです。
 そして更に勤労に励み、菜種の栽培などを元手にして手放した田畑を買い戻して24才で独立する。



 資料館の敷地内には金次郎の生家も復元されています。(神奈川県指定重要文化財)



 僅か24才で家を復興したという偉業は近隣の評判になった。
 そしてついには小田原藩の家老である服部家の借金返済の指導を行い、小田原藩主の表彰を受けることになります。



 

 その後は関東一円の諸藩に招かれて活躍し、最後は日光でその一生を終える。
 その後、遺族によって遺髪と遺歯が持ち帰られ、この善栄寺に墓が作られた。

 

 ちなみにこちらのお寺は1215年に木曽義仲と和田義盛を弔うために巴御前が開基したものと伝えられています。境内には巴御前と木曾義仲の供養塔、北条氏康夫人の
墓などがあります。



 もし二宮金次郎が幼少の頃の不幸を経験していなかったら、もし叔父が学問を許していたのなら、もしかして二宮金次郎の評価は今と違っていたかもしれません。
 自分に言えるのは、様々な不幸はあったけど、まずは本人の意思の強さと逆境を逆手にとることができた運の良さがあったということ。そして何より冷静に次になすべき
ことを考える時間があったということではないかと思います。





10:55
 小田急線の栢山駅あたりがお散歩の中間地点になるので、このあたりで適当な休憩場所を探します。
 そして見つけたのが豊島記念館「ギャラリー碧」、ギャラリーなのだけどお茶も楽しめるらしい。



 画家の豊島シズ枝先生のアトリエ兼自宅をお弟子さんたちが改装して、ギャラリーとして開業したそうです。絵画の展示だけでなく、音楽等のイベントや個展会場としても利用されて
いるそうです。



 展示している絵画はレンタルなどもしているそうです。



 そしてコーヒーとケーキのセットが550円ととてもリーズナブル、酒匂川沿いのお散歩の休憩地点として最高ではないでしょうか。









 再びお散歩旅に戻ります。酒匂川に沿って続く土手からはのどかな田園地帯が広がるところです。
 ただ江戸時代の終わりまでは幾度となく、酒匂川の氾濫の影響を受けたところです。
 小田原藩によってその能力を高く評価された二宮金次郎はこういった土手の土手の造成や、その強度を保つために松木の植林を行うなどして、この地域に対して高い貢献をしています。



 こちらは武田信玄が考案したという「霞堤」です。氾濫を逆手にとって水を呼び込む仕組みだそうです。

 



 この土手を歩いていると水神様や供養塔、洪水に関連する石碑など、大変な数の石の建造物を見ることになる。長い期間にわたって自然の猛威に脅かされ続けた人々の
歴史がここにあります。



 報徳思想は二宮金次郎(尊徳)の唱えた経済思想で、その後の日本経済に与えた影響は大きい。
 乱暴なまとめをするならば、ただ働いて収入を得るだけでなく、それによってどのような社会貢献をしているのかを考えよ。利益はすべて使ってしまうのでなく、将来のための投資、
調査研究など今後必要となるもののためにとっておきなさい、というところだろうか。



 今の日本の経済や人々の生活について言えば、必ずしも良い方向に向かっているとは言えません。
 自分が思うに、バブルのころは本当におかしかった。モノつくりは発展途上の国々にまかせてマネーゲームで稼ぐ方が賢いみたいな感じがあった。そしてバブル崩壊後は賃金
や研究開発の費用が低く抑えられ、国際競争力は低下し続けている。

 今更少々の賃金上昇があっても、日本の出生率1.26という数字は簡単には上昇しないような気がする。日本の人口は7000万人まで減少して、そこからは横ばいになるという
予想だと聞いたことがあるけど、7000万人がボトムになるという保証はない。そうなると年金自体も危うくなるのではないかと自分は思う。

 事態の改善に特効薬などないし、「起爆剤」などという一時的なものもいらない。
 教育や研究、技術開発にちゃんと投資して、良いものを作り続ける。働きにふさわしい賃金を保証する。やっぱりこういう当たり前のことを地道にやり続けるしかないと思います。
 思うに小学校から二宮金次郎像が消えていった時代と同じくして、報徳思想の基本理念も世の中から失われていったような気がします。



2024.03
camera:Panasonic DMC-TZ60 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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