大宝・関館
茨城県筑西市
2025.03.21
茨城県の筑西市はその名の通り、筑波山の東側にひろがる田園地帯です。ただその昔は鬼怒川水系の河川の影響で、湿地や沼がひろがり、治水には
かなり苦労があったと聞きます。そして南北朝時代はここを舞台に激戦が繰り広げられたところでもあります。
3.21 SAT 天気:晴れ
9:30
先日那須に行ったとき、筑西市の大宝というところに立ち寄りました。
最寄駅は関東鉄道常総線の「大宝駅」、知名度の高いところではないけれど、その昔はお城もあってこの地の中心地でした。
その中心的な存在とも言えるのが、こちらの大宝八幡宮です。白鳳時代の701年に藤原時忠によって創建されたと伝えられ、関東では最も古い八幡宮だそうです。
鳥居がものすごく大きい。
現在の本殿は1577年に下妻城主多賀谷尊経が再建したもので、国の重要文化財に指定されています。
平将門公や源頼朝など名立たる武将が戦勝祈願のために訪れた歴史を持つ。
こちらは境内にある黒鳥神社で、縁結びの御利益があるといわれています。
社伝によると、日光東照宮の眠り猫などで有名な左甚五郎が若い頃に残したという堀り物があるという。
あとはいくつもの古い神社や宝物殿、神楽殿、重軽石から相撲場に至るまで、様々なものが長い歴史の中で集められ、見どころ十分です。
ご利益が期待できそうなので、お守りを頂くことにしました。いろんな種類があったけど、とりあえず最近は怪我ばかりしてるので、健康長寿のお守りを選びました。(600円)
こんな感じで人形供養も受け付けていました。
ちゃんと目の入ったお人形って、やっぱり生きているみたいで捨てられないという人は多いと思う。事情によって手放さなければいけないときには、やはりこういうところに
持ってくるのが良いのかもしれません。(供養代は1体1000円ぐらいからのようです)
基本、自分は人形は捨てません。
汚れたらきれいにする。色あせてきたら塗装し直してメイクを施す。壊れたら何が何でも修理する。
10:00
大宝八幡宮そのものもとても立派な神社なのですが、実はその周りにも歴史を感じる建物が多く存在します。
こちらは大宝八幡宮入口にある一の鳥居です。
ご覧のように奥に向かって上り坂になっていて、まわりより一段高くなっています。平安時代にはこの地形を利用して、ここに大宝城が築城された。
真っすぐ進んだ八幡宮の裏が本丸、今は下妻市立大宝小学校の敷地となっているところが、東の城郭でした。
大宝城は平安時代から南北朝時代にかけてあったお城で、周囲は沼や湿地、そして三方に断崖を有する要害の地につくられました。南北朝時代、春日中将顕国が興良親王を奉じて
ここに移ってからは、東国における南朝方の拠点となった。
その後、北朝方の攻撃を受けて1343年に落城、城主下妻政康は討死したと伝えられる。
今も古い街並みが残る。
1950年、この大宝地区は茨城県観光審議会が選定した100の景勝地のひとつに選ばれました。このあたりより北にある大宝城址,関城址,黒子千妙寺,梶内観音などが
そのなかに含まれます。
東に見えるのは筑波山。
あとはただただ広い水田地帯。
お城の反対側に回ってきました。
やっぱり西側にも広大な水田がひろがる。
こちらには関東鉄道常総線の「大宝駅」があります。こちらもなかなかに絶景なので、田植えや稲穂が重くなった時期は、鉄道ファンがたくさんやってきているかも
しれないなと思いました。
ちなみにgoogleマップによれば、駅前あたりは、もともと大宝城の船着き場があったのだという。
実はその昔、このあたりは鬼怒川水系の河川によってつくられた湿地帯でした。その湿地に囲まれたこの高台は、まわりから攻めにくく、それがゆえに築城する場所
として選ばれたという訳です。
駅舎も瓦葺でとっても素敵。
背後の水田の風景も素晴らしく、Nゲージのレイアウトにするのも良さそうです。
こちらは今回のお散歩のご褒美です。
八幡宮の前に「ゑびす屋」という和食屋さんがあるのですが、こちらで厄除け団子と抹茶のセットいただきました。(700円) 本格的な抹茶とお団子でとっても満足、おすすめです。
なおお食事も充実していて、ラーメンあたりも評判が良いみたいです
10:50
次は同じく国指定史跡の関城跡を巡ります。関城は大宝城の北約2.3kmほどのところにあります。こちらは目立つ建造物もないので、当時の城の様子がはっきりと見て取れる。
画像の右側が20mほどの段差を持つ丘陵地帯で城もこちら側にあります。左側は大宝沼と呼ばれる湿地帯です。大宝城と同様に周囲を湿地で囲まれており、本丸に迫るには、
基本的に軟弱な沼地をすすむか、防御の固い丘陵地帯の北側から遠回りして攻め入るしかなかった。
この城は、北朝方に追われた南朝方の中心人物である北畠親房が1341年入城し、以後2年間にわたって南朝北朝方と激戦を繰り広げた南朝方の本城だったところです。
八幡神社に向かう途中、土塁や堀の跡などを見ることができます。
城壁や建造物などは残っていない城跡だけど、結構保存状態は良い。
こちらは坑道跡、北朝方が鉱夫を雇って湿地の下を掘り進み、関城内に攻め込む計画だったという。
しかしながら事故が多発して計画は中断した。鉱夫も湿地の下を掘るなんて、とっても嫌だったに違いない。一方の南朝方も場内から坑道を掘り進めたが、こちらもうまく行かなかった
らしいです。
想像力を働かせると、なかなかに生々しい景色が思い浮かべられる。
左は北畠親房の供養塔のある博物館で私的なものらしい.。googleにもその説明はない。
右は北朝方に攻城戦を挑まれ、興良親王をさらの北にお送りすることになったとき、宴が開かれたとされる場所です。
南北を貫く「関城通り」、この道の先に本丸があります。
関城は城攻めを受けてより2年後の1343年に落城、城主 関宗祐とその子 宗政は討死し、現在はこの本丸跡に葬られています。
南朝方の中心人物である北畠親房はこの地で歴史書「神皇正統記」を書きあげ、落城後は吉野行宮に帰還して、没するまで南朝を実質的に指揮し続けた。
この南北朝の時代って、日本の歴史のなかでもちょっと混沌としていて分かりにくいところがある。
結果として南北の朝廷は統一されることにはなるのだけど、決して時代が戻ることはなかった。
そしてもしもっと早く、朝廷が南北に分裂していなかったら、鎌倉幕府が終焉を迎えた段階で天皇の中心の世界に戻っていたかというと、それも怪しいような気がする。
北畠親房は賢く、指導力もあって、粘り強く信念に基づいて戦い続けた。でもそれは実を結ばなかった。
一方、鎌倉幕府が倒れ、朝廷が分裂して権力を失うなかで、足利尊氏は一気に駆け上がって権力を手にする。それを幸運だったからの一言で済ませるつもりはない
けれど、少なくとも機を見逃さない眼力の持ち主であったことは間違いないと思う。
ある意味、世の中そんなもんだと思う。
流れを読めないと、お金にもならない人形やジオラマばかりつくるようになっちゃうよ。
あ、それは自分のことか。
2025.04
camera:Panasonic DMC-TZ60 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10
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