熱海
鉄道開発が今の熱海をつくった
2025.05.20
一時期は寂れていたものの、今ではV字回復して活気を取り戻しているという熱海に行ってきました。もちろん熱海というと温泉なのでしょうが、自分は「全身が猫舌」と言われる
ほど、普通の温度のお湯さえ苦手なので、温泉にはほとんど入りません。
5.20 TUE 天気:晴れ
7:40
熱海駅です。東海道線、伊東線、東海道新幹線の3路線が通っていて、JR東海とIR東日本の双方が乗り入れている拠点の駅です。
駅前には熱海軽便鉄道の7号機関車が展示されています。東海道線が御殿場経由していた時代、この軽便鉄道が小田原駅・熱海間の25kmを結んでいた。(所要時間2時間40分)
この軽便鉄道が開通する以前、熱海は陸の孤島と呼ばれるほど不便なところだった。
それでも明治になって温泉地開発がすすみ、政治家や政府高官が会談や保養のために度々熱海を訪るようになって、その利便性を確保することが急務となっていた。
熱海鉄道は、まずは豆相人車鉄道として1896年に全線開通、その後は軽便鉄道が導入されるも、東海道線の開通により営業は停止されてしまった。
こちらは熱海駅前平和通り名店街です。食事処、かまぼこや干物などを扱うお土産屋さんがいっぱい入っている。
画像は人通りが少ないですが、それはこの時の時刻が7:40だったからです。だんだん暑くなってきて、坂道の多い熱海をお散歩するなら、早朝行動しかないでしょう。
画像右はアーケードの入口にあった恋占いです。
「世界一当たる!」と言い切ってます。何が根拠なのかな?
名店街の外れにはこんなお店もある。もともとは干物のお店のようですが、角打ちも楽しめるみたい。
歩いてゆくとこれに近いようなお店や、おしゃれなパブのようなお店がいっぱいあって、夜もまた楽しめそうです。
ずっと昔は治安の悪化がいろいろ言われていた熱海だけど、今は何の問題もない。むしろ東京のおしゃれな繁華街に近い感じがする。
ここまでは多くの人が知る熱海の繁華街ですが、ここから西に向かって一駅歩きます。
熱海駅を出て東海道線と伊東線はしばらく平行に走っているのですが、その伊東線の最初の停車駅が「来宮駅」で、もともとの熱海の中心街はこちらの方が最寄り駅になります。
8:05
こちらは湯前神社、749年創建というからかなり古い。
その昔、神様から「病を除く効果がある」とのお告げがあり、厳選近くに祠を立てて神を祀ったのが始まりと伝えられ、源実朝や久留米藩主有馬氏も祈願に訪れています。
その源泉がこちら、熱海七湯の一つで「大湯間歇泉」です。神社から坂道を少し下ったところにある。
そのすぐそばに白いレトロな電話ボックスがあり、その脇には「市外電話発祥の地」のパネルがありました。政治家や政府高官の連絡手段として、東京と熱海を直接
結びつける公衆電話が1889年(明治22年)に設置されたのだそうです。
今考えると、明治時代ってものすごく発展を遂げた時代なんだなって、今更ながら思います。
この熱海や箱根、そして那須や軽井沢などの観光開発があって、たくさんの別荘や農場がつくられ、交通網が発展し、そして今はインバウンド需要の受け皿になっている。
思えば明治・大正・昭和の120年ほどは、戦争こそあったけど経済的には日本は成功してきた。
でも実はそれは決して当たり前のことではない、多分に運の良さもあったと思う。ただ目の前のことに頑張るんじゃなく、ちゃんとした戦略がないと、もううまくは回らない。
ご存知の方は多いと思いますが、熱海は海岸線を除いては平坦なところがなく、歩いて移動しようと思うと、かなりの距離の坂道を登ることになってしまいます。歩くのなら
真夏は避けた方が良いでしょう。
8:25
熱海駅から西に向かって1km歩くと、ひときわ緑の濃い場所に出てきます。
こちらは來宮神社(きのみやじんじゃ)といって、平安初期に創建されたとされる古社です。坂上田村麻呂が戦の勝利を神前で祈願し、各地に御分霊を祀ったと伝えられ、
今も全国四十四社の來宮神社の総社として、信仰を集めている。
社殿は比較的新しいのですが、1300年の歴史を持つだけあって、一角は荘厳な雰囲気に包まれています。また境内で見つけることができるハート型の落ち葉や石畳が、
SNSなどで話題になることもあるそうです。
こちらは国指定天然記念物に選定されいるご神木の「大楠」、環境省の調査では全国2位の巨樹の認定を受けており、樹齢は2100年以上、存在感がものすごい。熱海に来たら
ぜひ立ち寄りたいパワースポットですね。
太い幹の一方は折れてしまっているのだけど、もう一方はまだまだ青々と茂っていて生命力を感じます。
8:50
次に向かうのは有名な「熱海の梅園」なんだけど、その途中にちょっとだけ立ち寄りたいところがあった。
梅園に向かって急坂を上ってゆくと、東海道本線がトンネル入るその真上に「丹那トンネル殉職者慰霊碑」なるものがあります。
当初の東海道線は、小田原から三島の間の山地帯は避け、御殿場を通る迂回路(現在の御殿場線)を利用していました。
しかしながら、人や物資の移動が盛んになると東海道線の高速化が求められるようになり、熱海から先に全長7.8kmの丹那トンネルが建設されることになりました。
但し工事は丹那断層付近で大量の出水があって困難をきわめ、1918年の着工から完成まで20年もかかる難工事となってしまった。また1921年の大崩落や1930年の
北伊豆地震の発生などもあり、この間に67名もの殉職者を出しています。
こちらは慰霊碑に相向かうようにつくられた丹那神社です。祭神は「トンネル事故犠牲者67柱の英霊」で、今もトンネルの入り口にあって東海道線を見守っています。
隣には「救命石」という石が祀られています。最初の崩落事故の際、この石のおかげでに坑内に8日間閉じ込められたものの無事に救出されたのだという。
ちなみに最初に紹介した熱海鉄道ですが、紆余曲折はありますが東海道線の開通に伴って、最終的には営業を終了します。
東海道線と並行して通る国道135号線沿いには、停留所や軌道跡などその痕跡がまだまだあったりしておもしろい。(歩いたことがある)
小田原と熱海の間というのは、日本の近代化と鉄道の関係を語るうえではなかなか興味深い場所です。
でも自分は正直言って、現在の鉄道行政を応援している立場ではない。
この丹奈トンネルの建設によって67名の尊い命が奪われただけでなく、更にはトンネル工事によって豊かな水資源に恵まれていた丹奈盆地や更にはその下流に住む人々は、
日常生活にも困るような水不足に悩まされることになる。トンネル工事によって地下水の流れが変わり、河川水や農業用水も渇水してしまったのである。
僅か7.8kmではあるけれど、トンネル工事によって大きな被害が出てしまったのが事実、そしてそれよりずっと長いリニア工事では、その歴史がまた繰り返されるかもしれない、
そう考える人が多いのはむしろ当然かもしれない。
更には明治以降、世界的に見ても奇跡的な発展を遂げた日本ではあるけれど、今は完全にその勢いは失われてしまった。少子高齢化、出生率1.15、日本の人口は数十年後には
半減する可能性もある。もちろんそうなれば鉄道の利用者も、これに比例して減少することでしょう。
コンクリートでつくられた建造物の寿命は一般的に50年だという。たとえ無理してつくったとしても、50年を経過したとき、そのときの日本がそれを維持し続けられるかどうか、かなり
怪しい気がします。
下水道管の点検とは訳が違います。
9:00
丹那トンネル殉教者慰霊碑を後にして、更に坂道を登ってゆく。目的地の「熱海梅園」は市街地にある見どころのなかでは、最も高いところにあります。
有名なのはもちろん梅園そのもので、TVでもよく紹介されます。こちらは1886年(明治19年)に開園し、現在では毎年11月中旬から、60種469本の梅を楽しむことができるという。
さて、では梅が終わってしまったこの季節は、いったい何があるのだろうと思っていたのですが、けっこうこれが面白かった。
公園自体は初川という清流にそってつくられているのですが、ちょっとした渓谷美がまずは美しい、そして涼しい。いちばん奥まったところでは滝の下をくぐることもできる。
この後の季節だと、ホタルを見ることもできるし、紅葉の時期もまた良いということです。
こちらは梅園内にある熱海市立澤田政廣記念美術館です。(入館料380円)
澤田政廣氏は熱海市名誉市民で文化勲章受章彫刻家、そしてその他にも絵画、陶芸、版画、書など多岐な領域にわたって意欲的に活動した人物です。こちらでは93歳で
没するまでの間に制作された多数の作品が展示されていています。
残念ながら内部の撮影は不可ということで、エントランスの作品だけをUPしました。
個人的には圧倒的な迫力のある「陰者」という作品、そして美しくバランスの取れた「海に立つ弟橘比売」という2点が特に印象に残りました。
園内には和風庭園や韓国庭園など、ほかにも見どころはあるのだけど、絶対に見ておきたいのはやはり「中山晋平記念館」だろうと思います。
こちらは大正初期から大衆音楽の普及に大きな足跡を残した著名な作曲家「中山晋平」の別荘を移築した資料館です。(入館無料)
中山晋平は「背くらべ」などの動揺から、「東京音頭」などの新民謡、そして歌謡曲「カチューシャの唄」「ゴンドラの歌」など 様々な大衆音楽を手掛け、現在知られて
いるだけでも1805曲もの作品をつくっているのだという。
館内には、中山晋平が作曲に使用したピアノや、直筆の譜面、当時のレコードなど貴重な物が展示されています。
こちらは中山晋平が愛用していた蓄音機です。さり気に犬が置かれているのが良い。
中山新平は教員職を辞したあと、1928年からは日本ビクターの専属作曲家として活躍していました。
こちらは昭和初期、熱海で最初に使用したと言われている白いピアノ、地元のためにつくった「熱海音頭」も、これで作曲したのだという。
飯山を訪れたとき、酒宴で中山晋平が書いたとされる「東京行進曲」の一説が額に入れられている。
中山晋平は1944年(昭和19年)、第二次世界大戦がはげしくなったのを機に熱海市に移住し、昭和27年に亡くなるまで居住していました。
最後は、自らが作曲した「ゴンドラの唄」が挿入曲として使われた黒澤明監督の「生きる」という映画を見た翌日に倒れ、65歳で没した。
10:30
こちらは市街地の中心を流れる糸川、遊歩道が整備されていて川底に降りることができる。
美しく、こちらも涼むのには良い。
そのまますすむと「熱海サンビーチ」に出ます。
解放感があって、白い砂浜からは美しい街並みや緑の山々が望めて、リゾート感たっぷり。あらためてみると少しだけハワイのような趣もある。
ビーチの一角には「貫一お宮の像」があります。もちろんこちらは尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の名シーンを再現したもの。主人公の間貫一が許嫁のお宮を足蹴にする場面
なんだけど、もう完璧なDVですね。
「金色夜叉」は明治時代の熱海を舞台にした長編小説で、1897年から読売新聞で連載が始まったものです。
貫一とお宮は許嫁の関係だったけど、お宮が裏切って富豪と結婚。絶望に陥った貫一は人が変わり、高利貸しの「金色夜叉」として世の中に冷酷な復讐を続けるというもの。
その後、お宮は金銭に目がくらんだ事を後悔し、貫一に救いを求めるようになるのですが、その頃には作者尾崎紅葉の病状が悪化して度々中断、最後は病没のために未完で
終わる。
その後、熱烈な読者の求めに応じて別の作家が「金色夜叉」の完結編を書くのだけど、本当のエンディングは分からずじまいというわけです。
作品が完結していないのに歴史に残るっていうことが、芸術の分野には時々あるけど、それは最後まで見たいという欲求と、欠けているが故の不完全な想像力がやはり関係するん
だろうと思う。
あと自分の場合「金色夜叉」の話は、なぜか花登筐の「銭の花」と重なってしまう。こっちは同じ伊豆でも熱川温泉なのだけど、ドロドロしたところは似ているかも。
2025.06
camera:Panasonic DMC-TZ60 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10
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