大山道


伊勢原 石倉から三ノ宮



2026.03.01
 今日のお散歩旅はいわゆる大山詣りの道です。
 大山とは神奈川県の丹沢大山国定公園のいちばん東側にある信仰の山です。今では山登りや紅葉のシーズン以外は人気の観光コースという分けではないですが、
その昔は大山詣りにやってくる人々は江戸からだけでも年間に10万人(当時の江戸の人口は100万人)、全国では20万人以上と言われています。





8:20
 出発地点の小田急線「伊勢原駅」です。今日はここから先「大山ケーブル」行きのバスに乗ります。でもその途中の「石倉」というバス停で降りて、少し気になったところを
巡ってみようと思います。
 多分こんなコースを歩く人ってほとんどいないと思う。





8:40
 バス停から川沿いを歩いて下ると、大山道の道標がありました。もともとは旧石倉橋付近にあったそうですが、道路の拡張の関係で移転してきたそうです。
 道標上のお不動様は片手が欠損して損傷が激しい、周りの鉄パイプは防護用のもののようです。

 左手に見える山が大山です。
 江戸を出ると遠くに冠雪した富士山が見え、その手前に三角形の美しい山様の大山が望める。そういう意味で昔から大山は信仰の対象になってきたのだと
言われています。



 道標を下って川沿いを歩く、道らしき道もないのに、こんな所にも道祖神が置かれていたりする。
 そしてその先には「クマ出没注意」の看板がありました。聞いたら年に1,2回ぐらい丹沢から降りてくるみたい。



 

 大山に向かう県道611号線バイパスの脇、今は竹藪になってしまったところに浄業寺というお寺がありました。「新編相模国風土記稿」によると、こちらは鎌倉の
浄光明寺の末寺で、北条政子によって1201年に建立されたと伝えられています。
 荒廃が激しく、お寺があった痕跡はほとんど残っていません。それでも立派な歴代住職の墓が立ち並ぶ。

 このお寺は室町以降は足利将軍家の直轄領でしたが、その後は長く荒廃した期間があったようです。そして江戸時代になって黄檗宗の高僧 独本性源禅師が
江戸の豪商新山氏と力を合わせて再興したという。
 ちなみにこの時代には様々なものを大山やその周辺に奉納したりするのが、江戸人たちの間で流行っていたらしい。
 しかしながら明治維新後の1904年7月の大雨により、寺の裏山が崩壊し建物は壊滅、そして1908年に廃寺となりました。





 さらに南下します。
 途中で「御領原古墳群」なるものを見つけますが、こちらも荒廃がすすんでいて何が何やら分からない。「古墳見てコーフンすることはない」の典型でした。多分、
ごろごろしていた大きな石が石室の一部だった、そんなところです。



 

 こちらは心敬塚です。
 連歌中興の祖といわれる心敬は、幼いときに出家して比叡山で修行を積んだそうです。その後、応仁の乱の騒乱を避けて関東へ下向した。ここは心敬が
晩年に大山、江ノ島などの景色を愛でながら、都を偲んで歌を詠んだところとされる場所です。

 1471年夏、心敬は浄業寺に身を寄せ、その後は江戸城で開かれた太田道灌主催の「武州江戸歌合」の判者を務めたという。そして1475年4月に当地にて
没した。享年70歳であった。
 その墓所は浄業寺と伝わりますが、地元では古くから心敬を祀る地として、この丘を手厚く護持しているそうです。



 

9:40
 伯母様という所に出てきました。その名も「伯母様」というバス停の前に、ひときわ立派な観音堂がありました。
 こちらが江戸時代に健立されたという「伯母様観音」です。とっても大事にされてきたのが良く分かる。



 もともとこの地は、北条氏家臣48人衆の1人に数えられる布施禅正康則の所領だったところでした。そしてその伯母様が梅林理香大姉で、康則は彼女の没後に
菩提を弔うため、荒廃していた高岳院(1366年健立)を再興したという。
 そもそも「伯母様」の地名は、梅林理香大姉が伯母様と呼ばれていたことに由来するという。





 そのバス停から北に伸びる道があって、その昔はそこに高岳院があったらしい。
 ちなみにこちらのご本尊は聖観世音菩薩像だったそうですが、もともとは廃寺となった浄業寺の菩薩像だったという記録もあるみたいです。この日まで
全然知りませんでしたが、見事に話がつながりました。



 跡地にやってきました。ここには以前も通りかかったことがあるのですが、そのときとは少し状況が違っていました。
 まずは「高岳院の跡」とある、これは以前にも見た記憶がある。(A)
 敷地内のあちこちで作業が進んでいて、踏み石が置かれていたり植樹されていたりする。(B) 入口の看板にもありましたが。ここでは高岳院の再建がすすめられて
いるみたいです。
 奥の方には石碑のようなもの(C)、あとは観音堂のようなもの(D)がつくられていた。

 

 石碑には萩本欽一さんや関根勤さん、あとは有名な人、無名な人、おそらくはこのお寺の再興に関わった人と思われる方々の言葉が並んでいた。
 何で欽ちゃんなのかというと、奥様がこの地の出身だったからだそうです。

 

 いちばん奥の建物に祀られていたのは情黙弁財天でした。萩本欽一さんが亡き奥様のためを思って建立したものだそうです。
 よく見ると、笑顔の素敵な弁財天の頭の上には欽ちゃんのマスコットもいる。ずっと一緒なんだね。






10:00
 伯母様というところからさらに南下して、三宮方面に向かいます。このあたりは本当に様々な種類、様々な時代の遺跡が多く、古くから開けていたところであるに
違いない。
 こちらは5世紀ごろにつくられたと伝わる松山古墳です。築造当時は直径40m、高さ4mほどの円墳であったと考えられている。たくさんの木が生えてはいますが、
きれいに形状が保たれていて、久しぶりにちゃんとした古墳を見たなと言う感じです。



 ここからの景色が格別、先ほどの「古墳見てコーフンすることなない」は一時撤回です。



 

 こちらは近くにある臨済宗能満寺、弘法大師ゆかりのお寺で1345年に創建された。もともとは鎌倉の建長寺の末寺だったという。あとこちらのお寺は抜群に
イロハモミジがきれいなことでも有名です。
 萩本欽一さんの手による石碑もある。欽一さんとご住職はお知り合いだそうです。

 ちなみに前回ご紹介した高岳院の再建なのですが、こちらのお寺と近隣の有志たちによってすすめられているみたいで、あの聖観世音菩薩像も現在はこちらで
保管されているんだとか。
 このあたりの事実も後で知ったことなのですが、この日は聖観世音菩薩像が遷されてきた浄業寺、高岳院、能満寺の3つを偶然にも巡ったことになります。
 まるで嘘のようにつながった!



 

10:30
 大山道から少し離れたところにある雨岳文庫(うがくぶんこ)です。雨岳文庫とは画像の山口家住宅主屋と付属家屋、そして2万点近くに及ぶ山口家に所蔵される
歴史資料の総称だそうです。
 この家は1834年頃に建築されたそうで、1998年には国の登録有形文化財に登録されました。また山口家文書のうち自由民権関連の資料は全国的にも有名なもの
だそうです。

 内部の撮影は不可でしたが、内部の案内や解説がものすごく丁寧で熱かった。(入館300円、日曜のみ公開)
 あとこの日は大山詣りの特別展も行われていました。



 菜の花畑の上に満開の白梅、その向こうに大山が見える。  完璧なショットだと思う。  ちなみにこちらで購入した梅干しが抜群においしかった。





 雨岳文庫のすぐ脇には大山阿夫利神社の二の大鳥居がある。
 この鳥居の下から見る大山もまた良しです。



 大山とは神奈川県の丹沢大山国定公園のいちばん東側にある信仰の山、その昔は大山詣りにやってくる人々は江戸からだけでも年間に10万人
(当時の江戸の人口は100万人)、全国では20万人以上と言われています。
 これは今回のお散歩旅の冒頭に書いたことですが、何故これだけの人がここにやってきていたのだろう?
 もちろん娯楽の一つであったことは否定できないけれど、やはりそこには江戸時代の人の祈りの気持ちがあったからだと思う。

 大山は別名、阿夫利山(雨降り山)と呼ばれていて、雨を降らす神様がいたと信じられていました。今はたくさんダムがあって、水が安定供給されているけれど
(最近は温暖化の影響でそれも怪しくはなっているが)、江戸時代の人にとっては水不足は生死に関わる問題でした。

 大山詣りが盛んだった江戸時代の後半、享保、天明、天保と大飢饉がたびたび起こっていたわけで、神の宿る霊峰に救いを求める気持ちは当然あったことと思う。
 ちなみに現在、雨乞いや商売繁盛を願う「講」の仲間と、巨大な木太刀を担いで登拝する文化は「江戸庶民の信仰と行楽の地」として日本遺産に認定されています。



2026.03
camera:Panasonic DMC-TZ85 / graphic tool: SILKYPIX Developer Studio pro 7 + GIMP 2.8 + Ichikawa Daisy Collage 10



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